ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年08月16日
 『メフィスト』9月号掲載。西尾維新的伝奇小説の世界、開幕。〈戦場ヶ原ひたぎは、クラスにおいて、いわゆる病的な女の子という立ち位置を与えられている〉。〈僕〉であるところの阿良々木暦は、彼女と、高校三年間クラスメイトだった。彼女には友達がひとりもいない。彼女には秘密がある。そして彼女は自分以外の人間をすべて敵だと見なす。まさか、そのとき〈僕〉は、〈僕〉が彼女にとって救いの糸を垂らすことになるだなんて思ってもみない。いや、ちがう、そうじゃなくて。誰も彼女を助けられない。結局のところ彼女は〈勝手に一人で助かるだけ〉なのだった。

 これまでの作品とは、設定そして登場人物を、いっさい重複しない世界観とキャラクターたちを提出した、おそらくは、西尾維新の新しいシリーズ、その第1作目としてカウントされることになるのが『ひたぎクラブ』である。吸血鬼や化け猫、そういった妖気放つ人外のものたちとの対峙が、物語の中枢になっている。高橋葉介の名前が本編中に登場するが、なるほど、作品のトーンとしてはマンガ『学校怪談』の中盤以降に、近しい。たぶん意識されている。とすれば、この小説の骨格は次のようにして出来上がっているのではないか。伝統的な妖怪変化の挿話の類を直接的に扱うのではなくて、いったんサブ・カルチャーによって回収されたそれを、西尾維新に独特な自意識の語り口へと流し込んでいる。

 クライマックスの照準は夜に合わせられており、サブ・カルチャー的なネタを用いながら、澤井啓夫のマンガ『ボボボーボ』あたりに顕著な、じつに今様なボケとツッコミを繰り返す会話が、小説内の時間を進行させている。積み上げられた軽口が、重く暗い苦悩を迂回しつつ、遠巻きに核心へと近づいていく。そのあたりの手腕は、この作者ならではのものである。他愛もない言葉尻が、感情に鍵をかけたアパシーをこじ開けるヒントになっている。

 そのようにして、本来であるならば、説話の構造として教訓的かつ教義めいた響きを孕むのだろう、伝奇風のエピソードは、ぜんぶがぜんぶ言葉のパターン、レトリックの問題に転化される。「思い」は「重い」のであるが、「思い」の失われることは「軽い」とはならない。そういった認識の違いは、神様みたいなものに対しても同じで、神様みたいなものが人間の上位に存在するか否かというのは、それこそ人間次第なのである。だいたいのところ、神様みたいなものが、もしも実存するにしたって、それらは人間の営みになど干渉しないのだろう。むしろ人間の営みが、それらの領域を侵犯する。つまり、罪と罰というものがあるのならば、それは自業自得の意味合いをつねに孕んでいる。だが、それも所詮はレトリック、表現の捉まえ方の違いでしかない。自分を許すことができるのは自分だけであるような場合に、他の考えを受け入れるのは、よっぽどシンどい。

 さて。題名である『ひたぎクラブ』だが、これはふつう読みはじめ、戦場ヶ原ひたぎが美しく、残忍で、ある意味カリスマティックであるために、彼女を中心とするクラブのことなんだろうか、と思う。けれども、読み終えたときには、ああそうか、戦場ヶ原ひたぎとクラブの話だったのだなあ、と思う。レトリック。

西尾維新その他の作品に関する文章
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『コドモは悪くないククロサ』について→こちら
 『タマシイの住むコドモ』について→こちら
 『ニンギョウのタマシイ』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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