ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2004年09月13日
 『群像』10月号掲載の短編。川端康成文学賞を獲った『袋小路の男』もよかったけれど、これもいい。絲山秋子は、やはり短編の人なのだ。複数人ではなくて、一対一の関係性を書くのが、似合っている。微妙な距離の親密さ、たとえば『袋小路の男』では、ただの友達ではないが恋人というのでもない一組の男女の数年に渡る交流が軸となっていて、性差はあるけれども性交がない、そういう緊張感みたいなものが、やさしくも切ない空気を生み出していた。『アーリオ オーリオ』は、簡単にいってしまえば、伯父と姪の話である。ふたりの手紙のやりとりを中心にして、進む。彼らの間にあるのは、恋愛感情ではない。が、肉親と呼ぶにはちょいとばかり離れていて、まったくの他人というほど遠くもない、そうした微妙な距離の親密さが、やはり、やさしくも切ない空気を育んでいる。絲山の小説には、淡々としたところがある、けれども、それはつめたさを表してるのではない。この世界では、誰もが連鎖反応の一部であるけれども、偶に、自分はどこからも隔絶されたひとりぼっちなんじゃないかなと感じる。そんなとき、誰かが声をかけてくれるのをずっと待ってる。もしも誰からも声がかかることがないとしたら、それほど寂しいこともない。その寂しさの書かれていることが、あたたかいのだと思う。

 さて。ここからは小説の内容とはあんまり関係のない話なんだけれど、『アーリオ オーリオ』には、伯父さんにあたるところの39歳の男性が高校のときにジョン・ボーナムの死をリアル・タイムで体験して友人とともにショックを受けた、というような箇所がある。この39歳というのは、要するに、絲山の年代なわけで、まあそう考えれば、若いといえば若いのだけれども、レッド・ツェッペリンを知ったときにはすでにジョン・ボーナムは亡くなっていた世代に属する僕なんかは、こういう設定だと、ずいぶんと年輩な感じを受けてしまう。ジェネレーション・ギャップなのかもしれない。こういうことを考えるのは、この十年ぐらいの間で、けっこう多くの小説にロック・アーティストの名前を見かけるようになったからで、ロック(ポップ)・ミュージックを聴いてない読み手は、きっと素通りしてしまうポイントなんだろうが、僕なんかはわりと気になってしまう。そうした参照項と作品と作家の世代的な関連をまとめたテキストなんかあるとおもしろいと思うのだが、誰かやってくれないものだろうか。


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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