ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年10月04日
 世界の終わりの終わり

 佐藤友哉が、02年から04年にかけ、三回にわたって『新現実』誌に発表したシリーズが、このたび全面改稿され、『世界の終わりの終わり』として、一冊にまとまったわけだが、これがまったくべつの作品に変えられているから、おどろく。というと、語弊がありそうなので、言葉を換えれば、完全にオルタナティヴなヴァージョンになっている。まず出だし、今回のヴァージョンでは〈いきなりでもうしわけないが、想像して欲しい〉といわれている箇所は、初出の段階において〈いきなりで申し訳ないが、あなた達はこれを読むな〉というものであった。こうした短いセンテンスを覗き込んだだけでも、その言葉を動かす力学が、以前とは異なったものであることが、わかる。話の筋自体に大幅な変更が加えられているわけではない。小説のつくりは、作者を思わせる作中人物が、これを書きつつ、語り手をつめとる、おそらくはメタ私小説とでもいうべき装いなのだけれど、そうした手続きを踏む作者の内側の、おおきく違っていることが、はじめのヴァージョンとの印象をも、おおきく違えている。これは、やはり、文庫化のさい随所に改稿の施された『フリッカー式』や『エナメルを塗った魂の比重』には見られなかった現象で、それというのはつまり、あれらが基本的には物語を読ませるための小説であったのに対して、この『世界の終わりの終わり』は、物語になる前の、作者のレアな実感を、小説化してあるためだろう。『群像』1月号の創作合評で、佐藤の過去作『水没ピアノ』における得体の知れなさを高く評価する三浦雅士が、『1000の小説とバックベアード』に対しては「カルチャーセンターか何かで教えているような文学概念になっちゃっている」と不満を述べていたが、ここではその傾向はさらに進んでいるようにさえ思える。現代的な自然主義といえなくもない、そういうカテゴライズにすっぽりと収まるかのような整合性を得たかわりに、初期の衝動は完璧に失われている。じっさい、作中において重要な役割を果たす「妹」の存在からは、かつての正体不明なイメージが損なわれ、ひどく図式的な自意識の産物へと変容させられおり、〈僕がもとめ僕が愛した、僕にしか見ることのできない友人〉であり〈そして宿敵〉である「影」と呼ばれる存在も、これまた同様に、図式的すぎるほどに図式的である。あくまでも『世界の終わりの終わり』を、『1000の小説とバックベアード』以前の作品ではなくて、『1000の小説とバックベアード』以降の作品と捉まえるならば、最初のヴァージョンにはなかった(はずの)石川啄木の影響が、つよいのではないだろうか。いや、それは何も啄木の諸作が、このなかに投影されているということではない。『野性時代』6月号に掲載されているエッセイ「自作にBGM」で、佐藤は、「スーパーカーの歌詞に目を奪われた高校生の僕は、自分は言葉の分野で頑張ろうと思った。そういう意味ではスーパーカーがいなければ作家を目指」すことはなかったかもしれない、と書いているが、そのスーパーカーへの言及に示されるサブ・カルチャー的な資質が、ここでは、啄木を象徴とするかのような、すなわち文学的であろうとする指向へと、チェンジしている。本格的に東京へ出てくる前には北海道にいた啄木は、文学とともに生きようとし、かならずしも大成したとは言い難い状況のなか、27歳で亡くなった。たしか高橋源一郎だったかが、啄木の生き方は現在でいうロック・スターのようだった、みたいなことをどこかでいっていた気がするけれど、そうした部分に、作者の憧れはあるのかもしれない。何はともあれ、文学というジャンルへのこだわりが支配的となり、全体の印象を、こわばったものにし、良くも悪くも、佐藤友哉という作家が、ここからどこか次の段階に進まなければならないことを、教えてくれる作品になっている。

 『1000の小説とバックベアード』について→こちら
 『子供たち怒る怒る怒る』について→こちら
posted by もりた | Comment(1) | TrackBack(1) | 読書(07年)
この記事へのコメント
hyほ;
Posted by あんこ at 2011年03月23日 15:08
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[読書(小説)]佐藤友哉『世界の終わりの終わり』
Excerpt: 連載時より、この作品はそれほど特別に面白い作品というわけではなかったが、単行本化に際してより面白くなくなってしまった。 どのように書き換えられたのか、という点だけの興味で買ったので、まあ別に構わない..
Weblog: logical cypher scape
Tracked: 2007-10-20 17:49