ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年08月10日
 『文學界』9月号掲載の短編。〈私〉と同期入社だった牧原太、太ちゃんは、三ヶ月前に死んだ。一度たりとも恋愛関係になったことはないが、十年来の付き合いだった。来月の初めには埼玉から浜松に転勤になってしまう〈私〉は、ふと名残を覚えて、彼が住んでいた五反田のマンションへと向かう。「しゃっくりが止まら、ないんだ」。空っぽの彼の部屋で〈私〉を待っていたのは、死んだはずの太ちゃん本人だった。そうして『沖で待つ』の話は、〈私〉による「ですます」調で進む。社会人になってから、30代までの道筋を、こちら読み手は知らされる。それは、なにか報告であるかのようなニュアンスを含んでいる。だから最後まで読み終えたときに、もしかすると、これは〈私〉のハードディスクに残された記録なのかもしれない、と思う。残って欲しい記録だけが残ること、残って欲しくない記録だけが消えること、死者はそれを操作することができない。生者の場合はどうだろう。たぶん、似たようなものだろう、自分のことに関しては。だけど、しかし、他者に関しては、たとえそれが死者であったとしても、一方的な働きかけだけはできるのかもしれない。僕はいつも絲山秋子の小説を、寝る(性交する)小説と寝ない(性交しない)小説に分けて考えるのだけれども、これは後者の方であると捉まえられる。〈私〉は、わりと頻繁に「俺とお前は同期の桜」的な調子で、太ちゃんとの関係を語る。同期というのは、いったいどういうものだろうか。たとえば、家族や恋人や友達に対して、次のように問うたとしても、時と場合によるが、それほど日本語として変に響かない。「ねえ私たちって家族(恋人、友達)だよね?」。だが同期の人間に対して「ねえ私たちって同期だよね?」と尋ねたとしたら、その裏に含意がないかぎり、やっぱりどこか変だ。つまり素朴な疑問形としては現れない。それというのは、同期なんていえば、つねに「情」という概念を意識した上で成り立つ関係だからなのではないか。僕たちはふつう、よっぽどのことがなければ、家族や恋人や友達には、無意識のうちに「情」というものを向けている。そして「情」は、意識したところで、当事者同士いちいち口に出すものではないし、第三者に対して言明するものでもない。〈私〉は生前の太ちゃんと、あるひとつの約束をする。そのために、恋人でもないのに、自分の部屋の合い鍵を相手に渡す。いや、その役割はむしろ恋人では果たせない類のものなのである。ある種の親密さが遂行の邪魔となるような、そういう崇高な使命を負う。それは寂しさや悲しみを救ってはくれないが、自分が生きていた証のようなものとして、ときどき輝く。

 『ニート』『2+1』についての文章→こちら
 『スモールトーク』についての文章は→こちら
 『逃亡くそわたけ』についての文章は→こちら
 「愛なんかいらねー」についての文章は→こちら
 『袋小路の男』についての文章は→こちら
 『海の仙人』についての文章は→こちら
 「アーリオ オーリオ」についての文章は→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(2) | 読書。
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