ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年09月26日
 yato12.jpg

 もうちょい続くかな、と思われたのだけれど、奥瀬サキ(作)と志水アキ(画)による『夜刀の神つかい』が、この12巻をもって完結した。ちゃんとケリはついている。だが、なんという駆け足、なんという言葉足らず、なんという抽象エンド。おそらく、不満を述べる向きも、すくなくはないだろう。しかし、これはこれで十分にアリだと思う。なぜならば、この以前の段階で、主人公である日向夕介にまつわる個人的な物語は、すでに終わっており、その後の〈国とか世界とか宇宙の物語〉などというものは、意外と、こんなふうに、あっさり、漠然と語られる類のものであるのかもしれない、と感じられるからだ。今日、人は、多かれ少なかれ、メタ・レベルを意識しつつ生きるものであるが、メタ・レベルそのものを生きることはできない。こまかいストーリーは省くが、〈国とか世界とか宇宙の物語〉において、超常的な力を司る砌(みぎり)は、いわばメタ・レベルとオブジェクト・レベルとを往復する運動であった。メタ・レベルにあるさいの彼が、つまりは「夜刀の神」であり、オブジェクト・レベルの彼は「夜刀の神つかい」に、他ならない。そして彼が、完全なメタ・レベルに達し、属するためには、多くの犠牲を要しなければならなかった。当然、犠牲とされる人びとは、抗う。抗うことによって、結果的に、オブジェクト・レベルに止まる。そこで、それぞれが、それぞれの、個人的な物語を生き、そして死ぬ。〈――我らは 太陽の下部ではなく 太陽の次元に――太陽系を離れた時こそ 我らは神の紐を断ち切れるのでは――神つかいを増やし 強靱な“意識の舟”を作り上げ 他の星へ――――そして 我らは袂を分かつことになった〉という、この、神のオウムの言葉は、要するに、そのことを含意している。〈国とか世界とか宇宙の物語〉が、ひとまず終わったあとで、蟆霧(まきり)が、〈どいつもこいつも馬鹿ばっかりだぜ〉と、悔しげに吐き捨てる姿が、とても印象的だ。正直な期待をいえば、ふたたびヒカゲとして、夕介とコンビを組み、といった展開を読みたかった気もするが、それはもはや、彼にとっての物語ではなかった。メタ・レベルを指向する連中の馬鹿騒ぎに、菊璃との運命を通じ、自分から進んで介入していった夕介は、かつてのようにヒカゲを必要とすることはないし、あえて参画するつもりも、蟆霧には、ない。それでもなお、夕介のことを、ひどく愛するあまり、だから、その決断を憎々しく思わずにおれないことを、彼の、淋しげな瞳が伝える。このとき、背負わされている感情こそが、たぶん、実存である。

 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら

 文庫版『コックリさんが通る』(上)について→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(07年)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。