ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年08月08日
 阿部和重対談集

 阿部和重、ファースト対談集は、個人的に収められているものは過去にすでに読んだことがあるものばかりなのだけれども、それでもやはり興味深い内容なのであった。そういえば、中原昌也との対談が載ってねえや、と思ったが、あれは『映画覚書』のほうに収録されていたか。かつては「J文学」という括りでもって、ニアな存在であったけれども、今やほとんど接点のない、赤坂真理との対談などは、時の流れを感じさせる、けっこうレアなブツである。しかし、いちばんの読み応えを感じさせるのは、御大蓮實重彦との、『シンセミア』芥川賞受賞直後に行われた対談だろう。このふたりの相性の良さは、たとえば蓮實の近著である『魅せられて』収録の阿部和重論からも伺えることであるが、相手に対するストレートな賞賛が、まるで世間一般の事象に関するアイロニーとして機能しうるという点において、抜群であるし、読み手を巧みにエンターテインさせる。その味わいは、ユーモラスな発言が相次ぎながらも、それらのほとんどが不発に終わる高橋源一郎との対談と、じつに対照的である。それというのは、もしかすると阿部が蓮實について語ることが、蓮實が阿部について語ることのように、その相関性を今さら述べるまでもなく、それぞれ自己言及的な傾向を孕んでいるからなのだろう。この本でいえば、阿部と東浩紀そして法月綸太郎との鼎談、その鼎談も90年代以降を考えるにかなりエキサイティングな内容なのだが、そのなかおいて、東は蓮實について次のようにいっている。〈こう考えていくと、物語とは何か、物語と小説はどう違うのか、という問題なんですね。ご存知のように、これは蓮實重彦がこだわった問題です。蓮實さんはそれをある種の過剰さに求めたわけだけど〉。ここで『魅せられて』の『シンセミア』論「パン屋はなぜパンを焼く以外の多くのことに手を染めざるをえず……」において、蓮實が、阿部の文体には叙情が排せられているとして、次のようにいっているのを思い出す。〈……という何気ない一行がそうであるように、抑制ではなくちょっとした過剰が『シンセミア』の文体にぶっきらぼうな口語調をまとわせることになるからだ〉、そして、それこそが一世代上の作家たちには到底真似できない阿部の特性である、と。つまり、こういう風にいえないか。なるほど蓮實が求めた過剰さを体現する小説家として今や阿部和重がいるわけだ。とすれば、その小説は小説から遠く離れたテクストの原野で小説として成り立っているのかもしれない。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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