ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年08月02日
 犬はどこだ

 『犬はどこだ』は、もしかすると作者である米澤穂信が、はじめて大人を書こうとした作品になるのではないだろうか。もうちょっと正確にいえば、学生ではない、社会人が扱われている。しかし結果からいえば、それでも大人など、どこにもいない。〈私〉であるところの紺屋は25歳の青年である、いったんは東京にて就職したが、とある精神的な疾患のため、会社を辞め、いまは田舎に引き返している。そこで犬捜し専門の私立探偵を起業しようと思う。しかし事務所を開いて、はじめて訪れた依頼は、失踪した女性を見つけるという、ひどく厄介なものだった。と、ふつうの探偵小説あるいは職業家としての探偵が動くミステリ小説であるならば、紺屋には、すこしハードボイルドなケがあってもよさそうなものであるけれども、それはない、むしろ成熟を拒む、そういう無意識を抱えているかのような人物造形が為されている。もしかしたら、会社を辞めざるをえなかったという事情が、ある種の挫折として機能しているからなのかもしれないが、社会への積極的なコミットを果たさない人物として、当初の彼は現れている。また登場人物のほとんどが、彼と同世代か、あるいは老人ばかりであるということ、つまり壮年期に値する人物が出てこないという意味で、物語中には大人が不在している。そのように考えるのであれば、これまでの米澤作品と類似した、モラトリアムにおけるコミュニケーションの桎梏が、全体の像を形作っているともいえる。なるほど。探偵や犯人が、社会の側から負わされる責務を放棄する体で、社会へと復帰し、やがて組み込まれてゆく結末が、アイロニーではなく、感情を左右するリアリティとして、多くの読み手に映るのだとすれば、それはたぶん、大人と呼ぶべき人間などどこにもいない、この国の現在を見事なまでに反映した結果だろう。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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