ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年08月01日
 おもにヤンキー・マンガを描く高橋ヒロシは、かつてインタビューか何かで、自分の作品のある登場人物が読み手から過剰に支持されていることについて、憂慮を語っていた。そこには、アウトサイダーとして生きる(死ぬ)ことが美化されてしまう、そのことへの危惧があった。アウトサイダーとして生きる(死ぬ)ということは、たしかにいっけん格好良い、が、しかし、アウトサイダーにはハッピーエンドはもたらされない、それはほんとうにすばらしいことなのか。同様の疑問は、本宮ひろ志も『男樹』の続編によって、提出している。資本制においては、基本的に、金がなければ生きていけない。ふだん僕たちが生活していて、社会へのコミットメントを自分から必要とする場合というのは、たいていが金に困ったそのときである。だが、ヤンキーあがりの人間が、ドロップアウトした立場に止まったままで、金を稼ぐためにコミットできる社会というものがあるとしたら、すくなくともヤクザに関わりのあるもの以外には、ほとんど存在しないのだろう。それはやっぱちょっと、ね。だから高橋ヒロシは、ヤンキーというモラトリアムが終わったあとで、ギャングにならざるをえなかった登場人物に対して、読み手がつよく共感することへ向け、なにか一言いわなければならなかったのだ。以上、前置き終わり。

 さて。真鍋昌平『闇金ウシジマくん』の2巻である。この巻で、闇金融の社長である丑島が渡り合うのは、ヤンキーとヤクザである。真鍋のマンガは、モラトリアムをイコール怠惰と仮定して、そのことにどうやって決着をつけるか、というのが基本線になっているが、もちろん、ここでもその図式は適用されている。たぶん高校には進学していない、貧乏な母子家庭で育ったマサルは、悪い仲間たちとともに、ヤンキーというモラトリアムを満喫しているが、しかし、その胸中は圧倒的な無気力によって支配されている。それを誤魔化そうと、大きく羽目を外した結果、暴走族の人間である愛沢という人間に、追い込みをかけられてしまう。愛沢は、滑皮というヤクザに、恐喝されている。なるほど、ある種のヒエラルキーが出来上がっているわけだ。すでにヤクザとして資本制社会にコミットしている滑皮はともかく、モラトリアムの渦中にあるマサルと愛沢は、上位階級に献上するための費用を捻出する術を持たない。もちろん働けばいいのだが、そもそも働くモチベーションの欠如が、モラトリアムの遅延を要求し、社会へのデタッチメントを促すのである。じっさいに愛沢は〈日本中のバカが集まる工業高校を中退して、知り合いのつてで入った塗装工も運送屋もダルくてすぐ辞めてしまった〉のだった。そのようにして怠惰とイコールであるモラトリアムと決着をつけられない愛沢は、丑島襲撃を計画する。マサルはといえば、丑島に隷属することになる。いずれにせよ、底のない深い闇へと堕ちてゆく。

 いや、しかし、このマンガはいったい誰にどのようにして感情移入すればいいのか、わからないところがある。ある程度の感情移入は、物語からの働きかけである以上、重要だ。1巻で登場した初々しい新入社員の高田が、かろうじてその役割なのかなと思っていたら、この巻では、女性に関してわりと非情になっていたりする。うーん。結局のところ、すべて敗者のゲームである点が、時代性を抽象的に捉まえた風に機能し、それが読み手へのリンクとなっているのかな。ハロー、僕たちの暗い未来。

 第1巻についての文章→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ。
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