ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年08月28日
 羽衣ミシン (フラワーコミックス)

 『光の海』がとても良かった小玉ユキの、『羽衣ミシン』の大まかな筋は、おっとりとした大学生の前に、自らを彼に以前助けられた白鳥だと名乗る若い女性が現れ、いっしょに暮らすことになる、といったもので、こうしたプロット自体はもちろん、昔話である『鶴の恩返し』を下敷きにしているわけだが、舞台を現代に置き換えたという以上に、構造そのものが今日的なサブ・カルチャーのそれへと移し替えられている点に、注意しておきたい。どういうことか。『鶴の恩返し』にかぎらず、似たような筋を持つ昔話はたいてい、若い男やお爺さん、またはお婆さんのところに、人の姿をしてやって来た人ならざるものの、正体が明かされ、やがて去る、といった形式になっている。つまり、さいしょは他者と思われたものが、じつは異者であったという境界線の引かれた結果、離縁が訪れるのであった。しかし『羽衣ミシン』においては、たしかに最後には別れが用意されているとしても、その、はじめ異者であったはずのものは、だんだんと主人公からは身近な他者として感じられるものとなっており、作品のエモーションもそこに拠っている。また『羽衣ミシン』の場合、ヒロインは白鳥の化身であるけれども、これを、宇宙人や幽霊、あるいはロボットや魔法使いなどに置き換えてみれば、今日的なサブ・カルチャーの表現に類例の豊富なパターンであることが、わかる。ここで重要なのは、古典的な昔話と今日的なサブ・カルチャーの違いとは、けっして、ガジェットの用い方の違いではない、ということだ。昔話と同様のプロットであっても、今日的なサブ・カルチャーにおけるそれは、おおよそ男女関係ないし恋愛の感情に収斂する。コメディの要素はあっても、教訓めいた含みは持たず、だいたいのところ、シンプルなラヴ・ストーリーに帰結する。人は、一個の対象を、異者として斥けているときには、恋に落ちず、あくまでも他者として見なしうるさい、恋に落ちる、として、『羽衣ミシン』で扱われているのも、このような問題だといえる。そのことは当然、陽一と美羽ら主人公カップルの成立に直截的であるけれど、ワキの登場人物たちにも反響していて、たとえば、沓沢の作品を高く評価する糸織の視線が、とあるきっかけを経、沓沢当人に向けられることで、その関係性は変化するといった具合に、である。ところで、先ほどから述べていることをまとめていくと、『羽衣ミシン』は、今日的なサブ・カルチャーのなかで、とく突出したマンガではないように思われてしまうかもしれない。主題や構造に焦点を絞れば、おそらく、そうであろう。が、しかし、それらを成り立たせ、説得力を持たせるためにこそ必要な、絵柄や台詞回し、構図やテンポなどの、要するに、センスや技術の面に、作者の良さはある。ストレートなほどのロマンスをみずみずしい感性が覆う。

 『光の海』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(07年)
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