ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年08月20日
 悲望

 そもそもは『文學界』に発表された小谷野敦の小説二篇、「悲望」と「なんとなく、リベラル」が、なぜか幻冬舎から一冊にまとまって出た(これを『文學界』に連載されていたエッセイ「上機嫌な私」が終了した件と結びつけるのは、やや邪推が過ぎるか)。なので、あらためて読み直した次第なのだけれども、意外といっては何だが、先のときよりもおかしみを強く感じられたのは、話の筋自体はすでに知っているから、ちょっとした言葉の置き方などに、いや、まあ語り手の口調が(あくまでも今日からすれば)硬いため、いっけんそうとは見えないとしても、作者のユーモアが顕著に察せられたためだ。ユーモアというのが当てはまらなければ、作者による主体の意識的な対象化と言い換えてもいい。たとえ実体験が先にあるとしても、対象化という操作を経ているがゆえに、「悲望」においても「なんとなく、リベラル」においても、主人公の様は、哀れみを誘うと同時に、滑稽さをまとっており、そこがまたエモーショナルなのである。もちろん、この判断は、読み手各人の評価によって異なるに違いない。個人的には、さっきからいっているとおり、両作品とも好意的に読むのだけど、一般的に否定の意見も少なくはなく、それに対しては作者自身が本書の「あとがき」にて答えており、〈私は、道徳批評がいけないと言っているのではない。彼らの批評の基準が分からないのである〉とあるのは、つまり、技術的な面で批判されるのはいっこうに構わないが、そうではなくて、根拠が不明な道徳観で内容を測られては堪らない、ということであろう。じじつ小谷野はかつて、宮部みゆきの小説『火車』を高く評価しつつ、しかしながら一点だけ疵がある、と作中における倫理の曖昧さを指摘するにさいして、その根拠を十分に述べている(と思う)。ところで「あとがき」でも触れられている「リアリズムの擁護――私小説、モデル小説」(『小説トリッパー』07年春号掲載)のなかで、小谷野は、自然主義と私小説は区別されるべきなのではないか、との疑問を呈したうえで、〈広い意味でのリアリズムで小説を書こうとすれば、無から作り上げ、私小説やモデル小説を避けるというのは難しい〉とし、〈同時代の社会の一断面を、通俗にならずに描くためには、何かしらかの「タネ」が必要なのである〉といっていて、これは「悲望」や「なんとなく、リベラル」のリアリティがどこからやって来ているのかを告げている、のに等しい。では弱さはどこにあるか。それはやはり、過去の出来事に題材を求めている以上、語りの時制もまた過去に止まってしまっている点ではなかろうか。当人が私小説的だと認める「悲望」はもとより、主人公を女性にし、「NOTES」の存在を置くなど趣向の凝らされた「なんとなく、リベラル」にしたって、〈その当時〉や〈その頃〉といった時代背景を免れていない。とはいえ、純文学を志す新人作家の一作目や二作目なんてのは、ほとんどみなそうで、だから、それ以降の作品でこそ、真価が問われることになるというのは、大昔に村上龍が『海の向こうで戦争が始まる』の「あとがき」で書いているとおりである。

 「なんとなく、リベラル」について→こちら
 「悲望」について→こちら

・その他小谷野敦に関する文章
 『新編 軟弱者の言い分』について→こちら
 『谷崎潤一郎伝――堂々たる人生』について→こちら
 『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』について→こちら
 『禁煙ファシズムと戦う』について→こちら
 『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
 『恋愛の昭和史』について→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
 『すばらしき愚民社会』について→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(07年)
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