ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年07月19日
 スモールトーク

 『スモールトーク』という表題は、スクリッティ・ポリッティのナンバーからとられている。〈私〉が運転するアルファロメオ145のカーステレオから、それが流れている。昔付き合っていた男から借りたままになっているCDである。15年前の話だ。カマキリに似たその男は、ある日突然〈私〉の部屋から去っていったのだった。〈あんなに眩しかった朝は二度とない〉。その後、男は音楽プロデューサーとして成功した。〈私〉は売れない画家のまま、日々を漂流している。あるとき昔の男から「ドライヴに行かねえか?」と電話がかかってくる。それがこの物語のはじまりなのであった。

 1エピソードにつき、1台の外車がテーマになっている、自動車小説である。羽振りのよくなった昔の男が、次々に自動車を買い換える、そのたびに〈私〉を連れ立って出かける、じょじょにふたりの間の微妙な距離感が伸び縮みする、そういう趣向になっている。僕はそれほど自動車に強い人間ではないが、それとは無関係に、描写されるエンジンの体感と走行の速度が、心の移動を捉まえてゆくような感じがした。

 絲山秋子の作品には、大きくわけて、ふたつのパターンがあるように思う。寝る(性交する)小説と、寝ない(性交しない)小説である。これはどちらかといえば、前者寄りのものだろう。題名が似ているというのもあるが、デビュー作である『イッツ・オンリー・トーク』に近しい雰囲気もある。

 「こころ」だとか「からだ」だとかいう風に、一個の人間を、区切って考えるのであれば、「からだ」というのは要するに感覚である、しかし感覚というのは「こころ」でもある、ということは、その間には、厳密な意味でいえば、区別はない。とはいえ、自意識それ自体は「からだ」ではないのであって、もちろん脳の働きを身体器官の一部として考えるのであれば、「こころ」ではなくて、「からだ」だということになるわけだが、だとすれば「こころ」はどこにもなくなってしまう。ならば「こころ」への執着も要らないということだ。でも、そんな風にはいかないのだろう。「こころ」に「からだ」が付き従うのか、それとも「からだ」に「こころ」が付き従うのか。などと、いや、ちがう、そうではない。「こころ」と「からだ」は、けっきょく引き離すことができないのだ。分かちがたく結びついている。両者が無理のなく共存することを、ある意味では、平穏と呼ぶ。

 べつにそこに深い愛情が見受けられるわけでもないのに、体を寄せ、交わるごとに、心に変化が訪れるとして、〈男と一緒にいることが、だんだん居心地よくなって来ている〉というのは、つまり、そういうことなのではないだろうか。

 縦書きではなくて、横書きというつくりは、いまどき珍しいものではないが、この小説にそれが似合っている感じがするのは、たとえば〈oh,I need your love〉というロバート・プラントの歌声がそうであるように、片仮名やアルファベットに含まれる間抜けさがうつくしく映えるからというのもあるのだろうけれど、それよりも登場人物たちの壮年期ととれる年齢が、垂直に落下するような重たさではなくて、滑るみたいに流れてゆくような軽はずみさをもって書かれている、その文体のためなのである。

 自動車に関するエッセイと、徳大寺有恒との対談も併録されている。

 『逃亡くそわたけ』についての文章は→こちら
 「愛なんかいらねー」についての文章は→こちら
 『袋小路の男』についての文章は→こちら
 『海の仙人』についての文章は→こちら
 「アーリオ オーリオ」についての文章は→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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