ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年08月15日
 『群像』9月号掲載。津村記久子の『カソウスキの行方』だけれども、さて、カソウスキとは何かといえば、仮想好き、だということである。作中では以下のように説明されている。〈仕方なく、自分自身とのネゴシエイションに入る。どうだHDの空き領域を仮想メモリにあててPCのパフォーマンスを上げるのは自分次第だぞ、と、会社で死にかけのパソコンを使わされている上で覚えたことになぞらえて考えてみる。生活そのものをハードディスクとし、人生への意欲をメモリとする。生活の空き領域をあてて、人生への意欲を仮想的に満たそう、ということである〉と、つまりは、種々のパフォーマンスが低まった日々の営みのなかに作為的な恋愛感情を走らせることで誤魔化しの手応えを得ようとする、そういう試みのことだ。もちろん、自己の定義をOS機器に置き換える発想は、今日、とりたてて珍しいことではない。凡庸ですらある。が、この小説の実感は、そのような凡庸さをいかに捉まえるかにこそある。有り触れていて、他愛もない、しごくナチュラルな処世術のひとつを扱い、生きづらさを特殊なものとするのではなくて、センセーションとは縁遠い普遍的なものとして見、そのなかに一個の人間を導き出している。そこが良い。主人公のイリエは、あるとき後輩の相談を真に受け、義憤に駆られたせいで、その後輩と不倫関係にある上司から目をつけられることとなり、〈気がついたら郊外の閉鎖対象の倉庫に飛ばされて二つ年下の男の下で雑用をしている。いちおう本社では営業事務の女子の中での主任のような立場であったというのに〉である。彼女にしたら〈大学の新卒でこの機会部品の卸会社に入社してから六年、自分なりに無理してまじめにやって来た〉と思っているだけに、そうした仕打ちに納得がいくはずもなく、しかし易々と会社を辞めるわけにもいかなくて、ひたすら苛立つ気持ちと憂鬱に耐えながら、毎日の業務をこなす。また、あたらしい勤務地には、都心とは違い、帰り道に寄って、憂さを晴らすような場所もない。こうして、二十代後半で働く独身女性のストレスや巨大なショッピングモールに象徴される郊外の風景、等々のいかにもイマドキな題材が序盤に提示されるわけだけれども、作品が、ぐん、とおもしろくなるのは、イリエが、同僚の森川という冴えない人物を、身近にいる唯一の独身男性という理由だけで、とりあえず好きだということにしておく対象に選び、彼のことを観察しはじめてからだ。心なしか、文章の調子も、そのあたりを境に、キレが増してくる。たとえば、森川についてのノートに記録をとりながら、〈もしかしたらわたしがしているのは、好きごっこというより興信所ごっこではないかとたまに思うが、それには気付かないふりをしているイリエだった〉とあるのが、可笑しい。この可笑しさは、言うまでもなく、三人称の語りからやってきている。三人称の語りとは、要するに、作中へと持ち込まれた客観的な視点のことで、それこそ〈好きごっこ〉なぞといえば、関係性やコミュニケーション以前の独我論じみた世界を思わせたりもするけれど、これは自意識を下へ下へと掘りさげていくタイプの小説でもなければ、独りよがりの妄想を過剰にドライヴさせるタイプの小説でもなく、むしろ主人公は、現実の社会で、つねに困った顔をしている。ずうっと怠そうで、眠たそうにしているのも、疲労が抜けず、溜まっているためなのだと考えられる。それでも〈駅前からシャトルバスに乗り、ショッピングモールに夕食の食材を買いに行くことにする。駅前発のバスは、アパートの近所のバス停からよりは比較的一人の客が多く、それほど自分だけが孤独であるようには感じなかった〉というとき、彼女の孤独はけっして特別ではない。しかしだからといって彼女が孤独ではないことを意味しない。劇的に失ったり損なわれたりしなくとも、ただ満たされずにいることをそう呼んで差し支えがないのなら、やはり孤独であるのだろう。にもかかわらず、作中でいわれているとおり、イリエは〈望むことの少ない人間〉である。とくに何が欲しい、という具体的な願望を持たない。その彼女がカソウスキによって得たものがあるとすれば、それはきっと、やさしい憐憫なのではないか、と、ラストにおけるメールの送受信に思う。

 『冷たい十字路』について→こちら
 『炎上学級会』について→こちら
 『十二月の窓辺』について→こちら
 『花婿のハムラビ法典』について→こちら
 『君は永遠にそいつらより若い』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(07年)
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