ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年07月16日
 帰ってきたもてない男 女性嫌悪を超えて

 正直なところ小谷野敦は、『もてない男』よりも『恋愛の超克』のほうがおもしろいのだけれども、『恋愛の超克』はあまり売れていないと、この本の「まえがき」の段に書いてある。で、これ、『帰ってきたもてない男』は、その『恋愛の超克』とかなり内容の重複するところがあって、ということはつまり、もしかすると本家『もてない男』よりも興味深い内容であったりするわけだ。僕という人間もまた、死ぬほどに絶望的なぐらいモテないタイプであるけれども、ことによると年齢的なことなのかもしれないが、恋愛とセックス(性交)に対するスタンスに関しては、小谷野の考えに全面的に同意できるものではない、というのも僕はプラトニックを重んじる理想恋愛至上主義者であり、ある意味ではロマンティック・ラヴ・イデオロギーに拘泥するところがあるからなのだが、しかしフェミニズムうんぬんはべつとして、平等を盾に個人の能力差や環境の偏差が巧みに隠蔽されることについてのノーといった部分には、深く共感する。また、ここでの論の新規性としては、とくに本田透の『電波男』への違和が綴られている点だろう。大まかにいってしまうと、恋愛というのは誰にでもできるものではない、なので恋愛を諦めることこそが心安らかに生きるための、ひとつの手段なのだとするのが、小谷野の主張であり、言い換えるのであれば、それは近代的なバイアスの解除を志すものであるのだけれども、本田の場合は、舞台が現実から虚構へと移行しただけで、結局は「純愛」や「純潔」や「永遠の愛」などという近代に拠った観念は残る(残す)、といった風になる。だが、いずれにしても、最終的には孤独の問題になるんじゃないかしら、と僕は思う。この本のなかでも、孤独について書かれている箇所(P134あたり)がある。また孤独というか寂しさに関しては、たしか『退屈論』だったと思うのだが、そこでも触れられていた。でもって、そのあたりの話が、たぶん根幹の問題であるような気がするので、それを発展させた本格的な孤独論というものを、いつの日か小谷野には書いて欲しい感じがするのだった。

 『恋愛の昭和史』についての文章→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』についての文章→こちら
 『すばらしき愚民社会』についての文章→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』についての文章→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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