ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年07月15日
 なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論

 現代においては、どうもコミュニケーションがうまくとれない、会話が噛み合っていない、どうやら自分の言わんとしていることは相手に通じていないようだ、という機会に遭遇することが多い。なぜ「話」は通じないのか、それはつまり、大勢が「人の話を聴けなくなった」からなのだと、筆者である仲正昌樹は結論する。

 「人の話を聴けなくなった」というのはどういうことか。シンプルに、自分の話はしたいが、他人の話は聞きたくないということなのだが、掘り下げて考えるのであれば、近代が終わり、ポスト・モダンを通じ、不特定多数が共有しうる「大きな物語」の消失をともなう現代に至った結果、人々は自己完結的な「小さな物語」に充足するようになった、ということである。要するに、大局が見られなくなった、細部を大雑把なまま重要視するようになった、他人を外部という意味合いでの他者として認識するのではなくて、脳内で恣意的に捏造された他者ならざる他者として捉まえるようになった、まあだから、コミュニケーションという形態が、ダイアローグじゃない、モノローグとしての機能を優先させるようになった、というわけだ。そこには、客観や弁証といったものは、存在しない。

 そのようなことはもちろん、ここ最近になって様々な場面で指摘されている、自意識の変容のヴァリエーションのひとつであるけれども、それを仲正は、身近な事例を出発点に、ひじょうにわかりやすく説明してゆく。のだが、自分が経験した嫌な出来事を基盤にロジックが進められるため、文章にやや感情的なドライヴがかかっており、ともすれば近頃の若い者は的な一般論に落ちそうな危ういところもあって、そこらへん、読み手を選ぶ(読み手を選んでいるの)かもしれない。

 と、読み進めていて、困ってしまうのは、こうしてインターネット上で文章を発表することに対しての批判めいた箇所もあるからで、自分はそうではないと信じたいが〈“ネット評論家”たちが陥りやすい落とし穴は、稚拙であまり面白くない文章でも、ほとんど推敲しないままでアップしてしまう癖がつきやすいこと、及びその稚拙さを見破られていることに気付きにくいことにある〉といわれれば、あ、や、まあ、そのう、と苦い顔になってしまうのであった。

 さて。締めの部分で、仲正は、すでにこのようになってしまった現状を打破することは不可能だ、という断定を持ってくる。たしかに、改めて「大きな物語」を復権しようとし、たとえばイデオロギーや宗教を用いたとしても、それは結局のところカルト的なものとしてしか機能しないのだろう。そこで、複数の「小さな物語」をつねに相対化する〈非常にもどかしい〉〈やたらに疲れる〉手続きを踏むような〈面倒くささに耐えるしかないのだ〉といった案が提出される。

 たしかに、前提それ自体が共有されない世界では、絶対的な見方よりも相対的な見方を用いるやり方でしか、人と人はコンセンサスをとれないのであり、そのような部分においては、しごく納得な話ではあるのだけれども、そうした面倒くささに耐えられない人間の暴走に立腹したというのが、この本の出発点だったことを思い出せば、では対人関係におけるフラストレーションはどうやってやり過ごせばいいのか、建設的に処理するためにはどうしたらいいのか、といった新しい問題を抱え込んでしまう。なかなか世界はうまく回ってくれない。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | 読書。
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コミュニケーション能力−2
Excerpt: 『なぜ「話」は通じないのか コミュニケーションの不自由論』(仲正昌樹著、晶文社) 本書は、建設的な議論が成立しない条件(「なぜ話を聴けないのか?」)を、自らが遭遇した事例への怒りを交えて論じるエッセイ..
Weblog: Lynceus
Tracked: 2005-09-21 14:13