ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年08月05日
 虐殺器官

 円城塔の『Self-Reference ENGINE』には、自分にSF読みの資質が備わっていないことを痛感させられるばかりであったのに、同じく第7回小松左京賞最終候補になりながらも受賞を逃した経緯を持つ、伊藤計劃(けいかく)の『虐殺器官』に関しては、やたらエキサイトしたわけだが、いや、それは何も、どちらのほうが優れているということではなくて、(作品の、そして、こちらの)趣味や指向性に還元される問題に他ならないのだけれども、じつは読み比べつつ、両者における違いとは、結局のところ、村上春樹と村上龍の差異のようなものなのだろうな、と思ったのだった。いや、べつに、両村上のどちらかの影響下にそれぞれの作家がある、ということでは、ない。この点をどう説明したらいいか、考えていたとき、あ、とヒントになったのは、つい最近になって講談社から新創刊された文芸誌『FICTION ZERO』に収められている、東浩紀と桜坂洋、仲俣暁生の鼎談「探求「話法」のゼロ地点」である。そのなかで東は、大雑把に抜き出せばだが、村上春樹の小説は〈寓話でしょう。寓話って構造しかない物語なので、何の現実に依拠しているかは関係ないわけです。春樹はもともと「構造しかない小説」と昔から揶揄されているわけですが、でもそれは圧倒的に強い〉のに対して、〈それに比べれば村上龍はリアリティに素朴に拘っている。龍と春樹は、そういう意味では対照的ですね〉と、村上春樹に好意的な意見を、述べている。そこで「リアリティ」として指されているものを、言い換えるのであれば、おそらく「(風俗的な)情報(量)」ということになるだろう。つまり、村上春樹に顕著なのは「構造」であり、村上龍に顕著なのは「情報」であるように、円城の作品に強調されているのは「構造」であり、伊藤の作品に強調されているのは「情報」であるように思われるのだ。そして、そのことが文体や物語をも左右している。じじつ、伊藤計劃の『虐殺器官』の、その世界観やテーマ、作中人物の言葉を支えているのは、現代的なサブ・カルチャーをベースとする知識そのものだ。そしてそれは、ある場合には、ディテールと呼ばれる。国家規模の監視と暗殺がナチュラルとなり、それによって世界の平和が保持されている、と、ごく当たり前のように受け入れられている近未来、アメリカの情報軍に所属するクラヴィス・シェパード大尉イコール語り手である〈ぼく〉は、〈アフリカで、アジアで、ヨーロッパで、つまり世界のありとあらゆる場所で内戦と民族紛争が立て続けに起こり、そのほとんどで、ある国連決議いわく「看過すべからざる人道に対する罪」、が行われた〉その直截的な原因ともいえる謎の人物ジョン・ポールを追い、いくつもの戦場を駆け回るうちに、古来より人間の脳には「虐殺の器官」なるものが組み込まれており、それを煽動可能な「虐殺の文法」が存在することを知る。〈虐殺の起こった地域では、予兆としてその真相文法が語られる。/ では逆に、争いの予兆のない場所で、その文法で会話する機会が増えたら。/ 人々が虐殺の文法で会話するようになったら、その地域はどうなるだろうか〉。この、凶行とでもいうべき営みを阻止しようとするシェパード大尉の奔走が、基本的なプロットとしてあり、そのなかで、母親の喪失に端を発する〈ぼく〉の心の動きと変化が、ジョン・ポールやその元恋人ルツィアとの関わりをともない、語られる。作品の核を為す「虐殺の器官」ないし「虐殺の文法」というのは、とても作為的なロジックで、にわかには説得されがたいのだが、まさに村上龍の小説がそうであるように、ディテールの積み重ねに拠る強度でもって、物語に没頭させる。とはいえ、ゲームやマンガ、ポップ・ミュージック、それから現代思想にまつわる、いくつかの饒舌さは、あきらかに余剰であり、むしろノイズに感じられた。


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | 読書(07年)
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虐殺器官
Excerpt: 世界は重層化している。血と汗と涙のレイヤーの上に貧困と繁栄のレイヤーがあるのがこの「世界」だ。
Weblog: 日々雑感II
Tracked: 2008-08-04 18:14
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