ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年08月01日
 覇-LORD 9 (9) (ビッグコミックス)

 ある文化が一定のレベルに達する、または、ある文明が過渡期に入る、と、大勢からは大切なものが損なわれる、こうした考えは、ごく当たり前のように受け入れられていて、さまざまな物語のなかで、時代的な背景を問わず、繰り返し、採用される。なぜとすれば、人類の歩みが証明しているからということなのか、歴史的な事実をモチーフにしたフィクションにおいて、それが果たされるケースは、すくなくない数にのぼる。この、「三国志」または「三国志演義」を原典とする『覇‐LORD‐』などもまさにそうで、当時の先進国というか大国であるところの後漢では、「義」の概念が希薄になったため、争いが絶えず、そこに後進国的な位置づけの倭から、主人公が逆輸入してきた「義」をもって、和平をもたらそうとする、というプロットをとっている。ここで基軸を為しているのは、おそらく、具体的で思想的な根拠というより、もはや都会人の持ちえないイノセンスを、未開の地の人間に投影するような、そういう幻想だとしたら、言うまでもなく、いくつもの表現でお馴染みのものに他ならない。もちろん、具体的で思想的な根拠を述べるのであれば、中国と日本の、地理的な関わり、歴史的な対照のうちに、儒学ベースの思想を問うことであり、たぶん、原作者である武論尊のイデオロギーは、そちらを向いている。そういえば、(酒見賢一の原作小説とは内容の異なる)森秀樹のマンガ版『墨攻』では逆に、まあ、あそこで扱われていたのは儒学へのカウンターである墨家の思想ではあったけれど、秦王朝期の中国に居場所をなくし、海を渡った主人公が、その後の日本に影響をおおきく与えたことになっていたな。とまれ、話を『覇』の9巻に戻すと、前巻で、董卓軍の華雄もまた、劉備と同じく倭人であり、「義」を尊ぶ人であったことが明かされたうえに、その華雄を陥れ、董卓の軍門にくだるきっかけをつくったのも、やはり倭人でありながら、こちらは「義」を欠く道基という人物であったことが描かれ、ある意味で、中国人と「義」をめぐるレイヤーのほかにもうひとつ、日本人と「義」をめぐるレイヤーがつくられたわけだが、前者における董卓の陰謀や袁術の野心と、後者における道基の暗躍が重なり、劉備や孫堅は窮地に立たされることになる。しかし、あれだね。テーマ云々とはべつのレベルで、「三国志」をなぞる必然上、登場人物が膨大に増えつつあるとはいえ、呂布の、あの当初はすばらしくすばらしかった呂布の存在感が、今やすっかりと乏しくなっているのには、ほんとがっかりだよ。予想どおり、渡海さん(『覇-LORD‐』と同じコンビによるマンガ『サンクチュアリ』の最高にかっこういい登場人物)の二の舞かあ。

 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(07年)
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