ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年07月30日
 キャンディーの色は赤。 (Feelコミックス)

 魚喃キリコの新刊『キャンディーの色は赤。』を開いて、一瞥、これまで以上ともいえる言葉の多さに、あ、と不安を覚えたのは、90年代に魚喃の熱心なファンであったらしい(『群像』06年8月号)雨宮処凛が、今や傷つく少女じゃいられないとばかりに、左傾化し、恋愛の捉まえ方に関して宇野常寛には、古い、魚喃は賞味期限が切れている(『PLANETS』VOL.03)とまで言われてしまうような現在にあって、つまり、以前ほどには存在がサブ・カルチャー的にヒップでもクールでもない状況下で、こうした手法がどれだけ有効なのか、訝しいところがあったからなのだが、まあ扱われているモチーフについては、あいかわらず、だめんず(って、この言葉はまだ生きてんですか)やシガレッツ・アンド・アルコール、それから浮気性に自傷などの痛々しくラヴったものであり、清新さはないのだけれど、その語り口からは、停滞とも、また成熟とも異なる、たしかな手応えを感じられる。最初に触れたとおり、いちページのなかで、言葉の、とくにフキダシ外のモノローグによって占められる割合が、ひじょうに大きい。しかし、それはなにも画とのバランスを欠いていることを意味しない。いっけん、そうは見えないとしても、である。おそらく、言葉の連なりに、小説やポエムを読ませようという心づもりがないことは、そのリズムやテンポによって、うかがい知れる。ここで、画とともにある、あるいは画のうちに含まれる言葉群は、あくまでもマンガならではのテンポやリズムで読まれるものだ。たぶん、発想としては、よしもとよしともの『青い車』に収められている諸作品や短篇「4分33秒」あたりに近しい。もしかすると、マンガにある種の音楽性を持たせようとした結果、こういうふうになったのではないか、とさえ思えるぐらい、一個の場面における間の取り方というか、息づかいが大切にされている。とくにラストに置かれた「2006、夏。」では、しばらくサイレントのままコマが進んだのち、やがてたどたどしく、しかしはっきりと刻まれることとなる独白が、ほとんどそれだけでひとつのシーンを為し、閉塞や虚無の向こうにある晴れ間に手が届きそうな、あざやかな印象を結ぶ。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(07年)
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