ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年07月10日
 もともと興味が薄いというか、ほとんどないというのもあるのだが、『すばる』8月号の「中国文学の現在」という特集を読むと、へえ、と新鮮に感じられるところがけっこうあった。この『アタラシイ死』という短編は、その特集のなかに収められていた1編で、作者の春樹(チュンシュー)は、83年生まれの女性作家である。故郷を離れ、北京に住む〈私〉は、ある日従妹からの電話によって、仲良しだったすこし年上の男性である偉波(ウェイボー)が、ケンカに巻き込まれ、ナイフを刺され、亡くなったことを知る。「これって、初めて私の友達が死んだってことだ!」。偉波は〈私〉がタバコを吸うことを咎めなかった。実の兄よりもずっとやさしく接してくれた。〈私〉と偉波の間にあった親密さを知る者は、この世にはもう、〈私〉しかいなくなってしまった。たとえば〈私たちの故郷ではタバコを吸う女は売春婦に見られる〉という一節に如実であるように、読み手であるところの僕とは、周辺を包囲する文化的状況や、世代そして性別までもがまったく違うことを強く意識させる作品であるけれども、しかし胸に落ちてくるエモーションに違和感はなく、それは綺麗な波紋を作る。そのような読後感はいったいどこからやってくるのだろう。〈私〉が偉波の死を悼むとき、動機となるのは、恋愛感情ではない、それ以前にふたりは恋愛関係ではないようだ。〈私〉と偉波を結ぶものは、たとえばセックス(性交)や血の繋がりといった、いわば身体を経由するものではなくて、記憶を美化するような精神的な担保、つまりプラトニックと言い換えることが可能かもしれない、そういうものである。それが〈私〉の意識のなかにある、旧く体制的な、共同体による同調圧力と、ぶつかり合う。要するに、偉波の死は、ある種の閉塞感に抗うため快活であろうとする〈私〉の、そのアイデンティティを為す一角の喪失と、ほぼ同義だという風に受け取れる。それは、一個の人間の死を、ただ一個の人間の死として受け入れるのとは、違ったレベルの悲しみを生み出すのだろう。そして、その悲しみの誰とも共有されないことが、重すぎず軽すぎず書かれることによって、普遍に届きそうな切実さが形作られているのだと思う。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック