「僕」は仕事帰り、終電の地下鉄に乗り込む。そこで、ひとりの少女が4人の若者にからまれているという場面に遭遇する。状況をよく理解できないながらも、彼女を助けようとするが、しかし返り討ちにあってしまう。次に目覚めたのは病院のベッドの上だった。彼の意識は昏睡状態にある身体の内側に閉じ込められてしまった。
これを読んで僕がさいしょ思い浮かべたのは、舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる。』だった。枠組みは違っているが、中核にあるテーマとでもいうべきものは、ひじょうに似通っている。あるいは、イラスト(挿画)が、小説にある種の効果として奉仕するスタイルは、方法論として、近しいものであるかもしれない(イラストーリー?)。
それにしても、不確実性に満ちた現実の世界から依然として僕を遠ざけているものが不確実性そのものであるのは皮肉だった。
アレックス・ガーランド『昏睡 コーマ』P199
この世界は、現実として疑われていないこの、ここは、でも、夢なのか?
舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』P84
夢はそれを見た人だけのものであり、なにをどうしようと、それを人と分かち合うことなどできはしない。
アレックス・ガーランド『昏睡 コーマ』P199
でも今僕がこうして夢を夢だと気づいているということは、夢を壊しているということで、つまりこの夢のどこかにほころび、穴があるのだ。
舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』P81
書かれた時期がどのような因果関係を持っているかはわからないけれど、両者は同じ時代を生きる同世代の作家(ガーランドは70年生、舞城は73年生)として、なにか共通する問題意識のようなものを、たしかに、掴んでいて。そして僕は、それがいったい何をもたらすんだろうとか、そういうことを考えている。
ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2004年08月26日
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