ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年07月08日
 『群像』8月号掲載の中篇。寡聞にして、作者である前田司郎という人のことは存じ上げなかったのだけれども、巻末にある執筆者一覧を眺めると、劇作家とあった。それで演劇のシーンに疎い僕は、ちょうど小劇場特集であった『ユリイカ』7月号を見てみることにしたのだった。すると、あった、あった。「五反田団」として紹介されている。その紹介のなかで〈フリーター世代、パラサイト・シングル、ひきこもり、NEETのみならず、ポストバブル世代の若者が潜在的に抱える無気力、あきらめ、失望といったナイーブな心情にシンクロして、絶妙に今を捉えている〉と書かれていて、なるほど、この『愛でもない青春でもない旅立たない』という小説も、そういったニュアンスを多分に含んでいる。そういえば、小説の舞台のひとつは五反田であった。

 話の筋を簡単に切り出せば、大学生の〈僕〉がそれまで親密だった女の子にフラれ喪失感を味わう、といったひじょうにショボいものである。が、しかし、そのショボさのなかには、ある一定の重さをもった、悲しみがちゃんと存在している。もしかすると、その重みを指して、リアルだということができるかもしれない。そして、そのリアル、リアリティは、モラトリアムであることを前提にして生じている。モラトリアムとは何かといえば、決定がつねに先送りされる、そういう状態のことである。決定がつねに先送りされているということは、つまり本来であるならば、何も決定されないという風になるはずなのだけれども、しかし、そうはならない。タイムアップは、自分の手によってではなくて、他者の手によって決められる。言い換えれば、自分の思惑とはべつのレベルで、決定が手渡される。そこに自分の意思が入り込む余地はない。もちろん、そのことをただ単に、受け身(待ちの姿勢)なだけじゃん、と矮小な話にオチつけて片付けることも可能だ、が、誰だってときどきは、自分がすべてに積極的である立派な人間ではないことに、気づいたりもするのだろう。

 連続する「、(句読点)」の使い方は、どういう狙いがあるのか不明だが、演劇系の人たちが書く小説のほとんどがそうであるように、レトリック重視な口語体を中心にして進む文章は、とても読みやすい。しかし。ペニス、ペニス、ペニス。描写にウェイトの置かれたペニスは、物語のなかで、いったいどのような役割を果たしているのだろうか。ひとつには、僕たちの持っている固有性なんて、ペニスの形の違い程度のことだよ、という言い切りが考えられる。もうひとつには逆に、ペニスの形が人それぞれ違うように、僕たちには必ずや固有性がある、とか。あとは、怠惰や惰性は男根主義的な横暴さと同義であり、それに対するアイロニーとかうんぬん。意味付けなんて意味ないよ、と言われれば、まあそうなのかなあ。夢のなかで少女が〈僕〉に釘を寄越す、それは〈冷たく硬かったが、そういうものだと思って大して気にもならな〉かった。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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