ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年07月18日
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 木々津克久の『ヘレンesp』は、『週刊少年チャンピオン』のNO.26(6月21日号)からNO.30(7月5日号)にわたり、計5話が発表されたシリーズで、掲載誌の通例にならえば、単行本化される可能性はきわめて低いと思われるが、そのことを、もったいないなあ、といわせるぐらいの佳作なのだった。五年前、家族旅行の最中に、両親を亡くした少女ヘレン・高原・ラ=グィードは、自らもそのときの交通事故のせいで、視覚と聴覚を失い、言葉を喋れなくなってしまう。現在、いっしょに暮らす伯父は、それを不憫に思い、ドイツはメルキオール社製の新型補聴器をヘレンに試すのだけれども、しかしなぜか、機器が発するパルスに衝撃を受けて彼女は特殊な能力を得る。要するに、この特殊な能力こそが、ヘレンのESPなのだが、はたしていったいどういうものなのか、具体的な説明は作中で為されていない。とにかくそれが原因であり、引き金であるらしい、そうしてヘレンの身の上にふりかかってくる少し不思議な現象を、マンガは描き、オカルトともファンタジーともとれる世界観が提出されている。このジャンル的な抽象性と曖昧さのなかに、読み手の類推の入り込む余地があって、そこに作者の意図があると考えられるのは、絵柄や雰囲気からは、いっけんハートフルなニュアンスを受けとるけれど、どのエピソードも、これ、深読みすれば、人間の本質あるいは社会性とでもいうべきものを、かなりグロテスクに、突き放して捉まえているわけだよね。たとえば、ヘレンと行動をともにする盲導犬のヴィクターが、第1話で〈ヘレンはもうオレ達に近い 人間のことがわかっちゃいないね〉と示唆しているように、彼女の純粋さは、世間との繋がりが希薄であることに由来し、それがESPの開花によって、人とは異なる者たちとの交流に結びつき、もしかすると彼らのほうが人間よりもずっと人間的なエモーションに溢れている可能性を、こちらに見せていく。捨てられた人間の赤ん坊を隠れて保護する野良犬が、獰猛だというカドで人間からも同類からも追われ、やがて善意の高校生たちに撲殺される第4話「ヘレンと魔王」などは、うわべ教訓めいているのを通り越して、ひじょうにショッキングな内容である。論理的な正当性が、感情のレベルで無化される。個人的には、かつては有名であったアニメ映画の監督が、誰からも偉大な才能を理解されなくなり、ホームレスになってまで孤独に創作を続け、死ぬ、といった筋書きの第3話「ヘレンの映画鑑賞」が、とても印象に残った。そこで〈その神がかった仕事ぶりに彼を否定できる者もなく…実際その作品もすばらしかった〉とされる映画監督は、やはり、社会的な通念からしたら行き過ぎ、破綻した存在であるがゆえ、ヘレンの感覚にコミットするわけだが、逆に〈オジイさんにとってはもうドラマも見せ場も関係ないんだ…周りに理解されるわけがない オジイサンがやりたかったのは世界を そのままひとつ作りたかったんだ〉とヘレンにいわれるとおり、あくまでも彼自身が望んだ結果、そうなったのだといえる。しかし作品は、それが正しいことなのか、間違ったことなのか、を問わない。ただヘレンの言葉をもって〈争いもなく 不幸もなく 人が幸せに生まれて死ぬ世界 オジイサンは行ってしまった 私たちにはもう行くことはできない……〉と結ばれるだけだ。むろん、いかようにも解釈できるとしても、〈争いもなく 不幸もなく 人が幸せに生まれて死ぬ世界〉に〈私たちはもう行くことはできない〉のは、結局のところ、フィクションでもないかぎり、そんな世界はどこにもない、からであろう。これは半ば諦念にも似ている。だが、それでも生きている以上はみな、こうした世界を生き続けなければならない。第5話「ヘレンの旅」において、死者である父親と再会したヘレンは〈ヘレン……君は今幸せかい?〉と尋ねられ、〈ええ……とても〉と笑顔で答えると、この世ではないどこかから、本来自分がいるべき場所へと帰っていく。木々津は、第5話が載った『週刊少年チャンピオン』NO.30の巻末のコメント欄で、「ヘレンはこのあと学校に行く事になりますが、それはまた別のお話」と述べているけれど、すなわちそれはヘレンを、あくまでも人間の社会に属するものとして描く、あるいは人間の社会とより直截に関わらせる、という構想なのだと思う。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(07年)
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