ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年07月04日
 死神の精度

 『死神の精度』という表題は秀逸であるけれども、ページを繰ってみれば、ぜんぶで6編収められており、なかには「恋愛で死神」や「旅路を死神」という、英題が先にあって、それを日本語に訳しただけなのかもしれないけれども、意味が通らず、ちょっとあんまりなものもあって、どひゃあとなってしまうが、もちろん題名のセンスと内容の面白みは、必ずしも比例するものではない。どれも良く出来ているし、楽しい。個人的には、ややハードボイルドに進行する「死神と藤田」が、いちばんの好みであった。

 人の突発的な死は、それが老衰や病死、自殺ではないとき、死神によって決定されている。死神はミュージックを愛でる。人間界においては千葉と呼ばれる〈私〉の仕事は、対象が死に適した人物であるかどうかを、調査することであった。結果が「可」であった場合、対象は調査を開始してから1週間後に、死ぬ。もちろん「見送り」の場合もあるが、それは非常にすくない、例外のようなものである。

 伊坂幸太郎の小説は、感じの良さがすべてなのではないか、と思う。この小説群でも、これまでの作品と同様、ミステリ的な構築の妙が活きているけれども、こちらの予測を大きくオーヴァーするものではない。が、しかし、その着地の姿形はとてもとてもキレイに決まっていて、へへえと感心する。度肝を抜くのではなくて、やさしいサプライズである。言い換えれば、その感心の色合いが、読後の余韻に繋がっているのだ。

 そういえば、つい先ごろ創刊された『papyrus[パピルス]』という雑誌のなかで、伊坂は黒沢清の映画『アカルイミライ』についての文章を書いている。そこでは意味の汲み取りや物語への感情移入は語られず、ただ作品が抱える雰囲気への言及のみが行われている。〈正直なところ僕にとっては、この映画に出てくるクラゲの意味合いとか、「君たちを許す」というテーマ(なのかな)はどうでも良くて〉といった具合に。この作家の本質は、そういった雰囲気のほうを、全体のバランスとして、調整する部分にあるのだろう。

 とはいえ、もうちょっと突っ込んでいうのであれば、この『死神の精度』では、死神という存在が、完全なアパシーを体現しているというのが重要である。たとえば、ある1編のなかに、人を殺しても反省をしない若者が出てくる。となれば、ふつう、その若者のアパシーが、内容の磁場を、重く暗たいものへと落としそうなものだが、死神の無関心から物語は語られるため、そうはならない。逆に、その若者の感情的というか人間味がクローズ・アップされる。殺伐さだとかトラウマだとかが、重石のようには機能しない。ふわっと軽い。そうした雰囲気作りの巧さが、結果として、現代的な病巣のネガティヴさを拡張して捉まえるような後ろ向きの見方を、否定している風にはなっている。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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