ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年06月27日
 音楽のシーンでは、00 年代に入ってから、どのようなものを指しているのか、ひじょうに曖昧な状態で一般化してしまった「エモ」という言葉だけれども、しかし、たしかに「エモ」という概念(ジャンル)それ自体は、ちゃんと存在しているような感じもする。しないかな。どうだろう。たぶん多くの人たちと同じぐらいに、僕もわかっちゃいないよ、というわけで、出来うる限り、大まかな見取り図を描けないものか、と思ったのだった。

 
前史1

 ひとまず始点は、フガジに置いておくことにする。これには理由がある。その理由は書いているうちに、はっきりとしてくるだろう。

 フガジの前身は、マイナー・スレットという83年にデビューしたストレートエッジ(ドラッグやアルコール、快楽主義を否定)のハードコア・バンドである。出身地はワシントンD.C.。所属は、メンバーのひとりであるイアン・マッケイが80年に興したレーベル、ディスコードであった。そしてフガジは、マイナー・スレット解散後に、イアン・マッケイがスタートさせたバンドであり、88年にディスコードからデビューした。

 ディスコードは、インディにこだわったレーベルであり、とにかくDIY(DO IT YOURSELF)の精神をモットーとした。その精神性は、90年代以降、フガジの活躍によって体現されていったといえる。

 80年代後半から90年代前半にかけて、時代は大きく変わりつつあった。グランジあるいはアメリカン・オルタナティヴと呼ばれることになる運動である。メインストリームに対するカウンターであったはずのインディ・レーベルの多くは、そのあたりを契機に、メジャーとの共犯関係を結ぶようになる。やはり代表的なのはニルヴァーナで知られるサブ・ポップだろう。また、79年に設立されたSSTのように、ダイナソーJRやソニック・ユース、ハスカー・ドゥ、サウンドガーデンなどの主要アーティストを、次々にメジャーへと吸い上げられていったレーベルもある。とにかく、メジャー・シーンにおける市場構造の変化は、多かれ少なかれアメリカのインディ・レーベルへと、波及していったのだった。

 そういった喧噪と、ほぼ無縁だったのが、ディスコードである。なぜか?

 メジャー・デビューしたニルヴァーナが、それでもインディへのこだわりを宣言しなければならなかったように、あるいは、アフター・グランジとでもいうべき時期にメジャー・シーンに登場したベックが、それでもインディとの契約も同時に更新していたように、91年から96年ぐらいまでの間、メジャーとインディというのは、いわゆる二項対立ないしは二元論的な関係性によって見られていたわけだ。が、しかし、イアン・マッケイ(ディスコード)の場合、そのような二項対立ないしは二元論自体が、そもそも頭になく、メジャーのシーンとは、完全に切り離された場所として、インディの空間を作っていたのである。結果、サブ・ポップやSSTその他諸々のインディ・レーベルが、90年代半ばに没落してゆくのとは逆に、ディスコードは、その地力の強さを表してゆくのだった。

 重要なのは、そうした姿勢が、フガジというバンドのサウンドにも反映されていたことである。ミドル・テンポのナンバーに重心を置き、ギターの不協和音や複雑な楽曲構成は、ポップな部分を含みながらも、どこか前衛的であり、その尖り具合は、グランジからメロコア(ポップ・パンク)そしてラップ・メタルという流れでもって90年代後半へと至るアメリカの騒がしい系ロック・シーンにおいては、あきらかに一般受けするものではなかった。かくしてフガジは、ポスト・ハードコアの象徴として、アンダー・グラウンドとイコールであるインディ・シーンにおいて、その地位を確立してゆく。

 もちろんディスコードは、フガジだけのレーベルではない。たとえばデイヴ・グロールがニルヴァーナ以前に在籍したことで知られるスクリームや、ビリー・コーガンとも交流があったシャダー・トゥ・シンクなどもディスコード出身である。

 また89年に結成し、91年にデビューしたジョウボックスがいる。ジョウボックスは、グランジあるいはアメリカン・オルタナティヴ・ムーヴメントの追い風を受けて、94年にメジャーに移籍してしまった(ディスコード初のメジャー契約バンドだった)が、その中心人物であるJ.ロビンスは、やがてプロディーサーとして名を馳せ、ジョシュアとかエンジン・ダウンなどなど数多くのエモ系バンドのアルバムにクレジットされてゆくことになる。そして97年のジョウボックス解散後は、自身もバーニング・エアラインズというバンドを結成。日本のエモ系アーティストであるナートに呼ばれ、来日公演も行った。

 上記の話とは無関係で、余談になるが、ジョウボックスと似た名前のバンドにジョウブレイカーというバンドがいる。カリフォルニアのバンドである。いやいや、名前が似ているというだけで、引っ張ってきたわけではない。ジョウブレイカーもまた、「エモ」の歴史を語る際に、ある程度のキーとなる存在なのであった。ニルヴァーナのツアーにオープニング・アクトとして参加したこともあるジョウブレイカーは、4枚目のアルバムで95年にメジャー・デビューしている。が、その後、解散。しかし中心人物のブレイクは、 98年にジェッツ・トゥ・ブラジルというバンドをスタートさせている。ジェッツ・トゥ・ブラジルは、元ジョウブレイカーであることも含めて、テキサス・イズ・ア・リーズンやハンサム(元ヘルメットのピート・メンジートがやっていたバンド)の元メンバーが参加した、初期エモのオールスター的なグループであった。


前史2

 アメリカン・オルタナティヴやハードコアの影響下にあり、おそらく一般的には和製エモの先鞭として認識されているのだろうナートとカウパーズが、98年に『JOHN “SPEEDO”REIS TRIBUTE PLUS…』というスプリット・シングルを発表している。タイトルにある通り、現ロケット・フロム・ザ・クリプトのジョン・レイスをトリビュートしたものであった。が、そこでカヴァーされているのはロケット・フロム・ザ・クリプトではなくて、その前身ピッチフォークと、90年代前半にジョン・レイスのサイド・プロジェクトとしてあったドライヴ・ライク・ジェイフーだったというのが興味深い。

 今では90年代ガレージ・ロックの代名詞のように語られるロケット・フロム・ザ・クリプトであるが、ピッチフォーク時代はハスカー・ドゥの影響下にあるかのようなインディ・ロックをやっており、ドライヴ・ライク・ジェイフーはその線を受け継ぎながらもスピード感とジャンク性とカオティック度を増したハードコア・パンクだった。じっさいにドライヴ・ライク・ジェイフーの音源を聴けば、そのサウンドもまたフガジと並び、いま現在「エモ」と呼ばれるサウンドの雛形になっていることが推測できる。

 さて。もうひとつドライヴ・ライク・ジェイフーの重要さを挙げるのであれば、そのメンバーにマーク・トロンビーノを擁していたことになる。いや、現在ではむしろ、マーク・トロンビーノは、元ドライヴ・ライク・ジェイフーという肩書きよりは、数多くの作品に関わるポップ・パンクやエモ系の敏腕プロデューサーとして大勢に知られているのだろう。たとえばエモというジャンルを語る際に外すことの出来ないジミー・イート・ワールドの『クラリティ』と『ジミー・イート・ワールド』を手がけたのは、マーク・トロンビーノであるし、ブリンク182やリヴィング・エンド、フィンチやミッドタウン、日本のハスキング・ビーなどの作品でもプロデュースをやっている。


前史3

 いまドライヴ・ライク・ジェイフーの『YANK CRIME』日本盤の大鷹俊一によるライナーを読んでいたら、ピッチフォークに対して「“西海岸のフガジ”といった評価」もあったって書かれていた。なので、80年代から90年代前半、東海岸のフガジと西海岸のピッチフォーク(ドライヴ・ライク・ジェイフー)をもって、エモの嚆矢とするのは、大まかな見取り図上では不可能ではないだろう。

 ところで、唐沢真佐子(SNOOZER増刊『あなたのライフを変えるかもしれない300枚のレコード』)によれば、エモ(エモコア)の日本におけるパイオニアはイースタン・ユースであり、アメリカでは〈80年代末から90年代初頭にかけて、シカゴを中心に広まっていった、というのが通説〉であるらしい。そこで唐沢が挙げるのが、キャップン・ジャズ(Cap’n Jazz)というバンドである。なるほど。のちにアメリカン・フットボール、ジョン・オブ・アーク、そしてプロミス・リングへと枝分かれするキャップン・ジャズはたしかに、ある意味で、エモの原点ともいえる存在だ。ただ95年に解散したキャップン・ジャズの場合、本格的な活動は90年代に入ってからで、つまりグランジ/オルタナティヴ・ムーヴメントのちょうど真裏に、アメリカン・インディとして存在していたバンドだといえる。

 いったん簡単にまとめる。

 フガジを象徴とするD.C.ハードコア・シーン、ピッチフォーク(ドライヴ・ライク・ジェイフー)に代表されるサンディエゴ・パンク・シーン、キャップン・ジャズを一例としたシカゴのポストロック・シーン、周縁のバンドも含めてそれらは、ポスト・ハードコア的であると同時に、シアトルを中心としたグランジとは違った形で、インディと同義であるアメリカン・オルタナティヴを実践していた流れであった。

 そして、その後継たちは、90年代半ば以降から00年代にかけて、ポスト・グランジとしてオーヴァーグラウンド化してゆく。つまり90年代前半にオルタナティヴのさらなるオルタナティヴであったものが、順繰り順繰り、メインストリームになっていった、そのような現象を指して、いまエモと呼ばれるものがあるというわけである。

 さて、ここで、たとえばあるアーティストが世に出る、その際にもっとも重要なファクターであるレーベルに関して、話を移したい。

 90年代前半にメジャーとの共犯関係を結んだアメリカのインディ・レーベルの多くが、90年代半ばに失速していったことはすでに書いた。「グランジからラウンジへ」とか言い出した頃のサブ・ポップの、あの迷走ぶりを思い出す。ところでサブ・ポップといえば、94年にサニーデイ・リアル・エステイトと契約している。その時点で、彼らがほぼ無名の存在に止まったのは、すでにサブ・ポップ自体が、それほどのネームバリューではなかったこともあるのだろう。(のちに再結成されるが)短い活動期間を持って、バンドは解散してしまう。彼らの名前が一般に認知されるのは、95年にデイヴ・グロールのフー・ファイターズに、元メンバーが参加したのをきっかけにしてである。
 
 と、繰り返しになるが、そういった喧噪と出来うる限り無縁に、スタンスを守り続けたレーベルのひとつとしてディスコードがあった。それとはべつに、メジャーに吸い上げられスカスカになったインディ・シーンに、新規参入し、そして台頭していったレーベルとして、ジェイド・トゥリー(JADE TREE)やドッグハウス(DOGHOUSE)の名前を挙げられる。

 キャップン・ジャズやプロミス・リング、ライフタイム、ジェッツ・トゥ・ブラジルのカタログを持つジェイド・トゥリーの設立は90年であり、ゲット・アップ・キッズやホット・ウォーター・ミュージック、マイ・ホテル・イヤーをかつて抱えたドッグハウスの設立は89年(90年かもしれない、正確なデータが見つからなかった) である。ちなみに、エモ系のレーベルとしてもうひとつ有名なディープ・エルム(DEEP ELM)の設立は96年であり、そういった若さを考えると、アメリカン・インディのシーンでは、90年代半ばを中心にしてレーベルの単位で世代交代が行われていた、ということになる。


 珍しく長文だった。続き書くかどうかわからないです。
posted by もりた | Comment(2) | TrackBack(0) | 音楽。
この記事へのコメント
マイナー・スレットのジャケをNIKEがパクったってことでディスコードがキレてるな。

http://www.alcatrize.com/modules/news/article.php?storyid=153
Posted by speedhead at 2005年06月27日 23:41
すげえロゴとジャケのパクり具合だった。
メジャー・スレットって……。
ロック・バンドが大企業のロゴとかをパクるのとは、
アイロニーの意味合いで、ぜんぜん違うから、
まあ怒んのは当然でしょうねえ。
Posted by もりた at 2005年06月28日 09:00
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