ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2017年04月20日
 ACMA:GAME(22) (週刊少年マガジンコミックス)

 00年代の中盤から2010年代の初頭まで連載された『未来日記』(えすのサカエ)をリアル・タイムで読みながら、いよいよフィクションにおけるデス・ゲームのムーヴメントも頭打ちかな、と予感させられたのは、理不尽なゲームに強制参加させられてもゲーム・マスター=神になってしまえば全部ひっくり返せるじゃん式の作劇に、さすがに度を越えているのでは、と思ったためであった。が、そうした作劇の方が時代にフィットしていたようで、2010年代もゲーム・マスター指向型のものが次々描かれてきた。近年の少年誌を見ても、『神さまの言うとおり』シリーズ(金城宗幸・藤村緋二)や『DEATH NOTE』のコンビによる『プラチナエンド』(大場つぐみ・小畑健)などが、おそらくはゲーム・マスター指向型に入れられる。個人的に、ゲーム・マスター指向型の作劇に対し、あまり好意を持たない。もちろん、理不尽なゲームに絶望せず、いかにサヴァイヴァルするか、単なる残酷ショーとサスペンスに終わって欲しくはないのだけれど、超異常事態に抵抗すること、あるいは人間が無力ではないことの証明を念頭に置いた際、疑問を抱かざるをえないケースが少なくはないからである。

 超異常事態に巻き込まれた人間たちのコン・ゲームであり、デス・ゲームのヴァリエーションともいえるであろう『ACMA:GAME』(メーブ・恵広史)が、22巻で完結した。正直な話、はっとさせられるまでのインパクトを備えてはいなかったかもしれないが、最後まで目が離せなかった作品の一つである。悪魔と呼ばれる存在が具体的に描かれ、人類を超越したファンタジーの領域が明示的、つまりは作中で何が起こっても不思議ではなかったため、当初は、これもゲーム・マスター指向型なのかな、と見ていたのだけれど、違った。むしろ、ゲーム・マスター=神の立場になろうとする者があることを拒否し、あくまでもプレイヤー=人間の立場にとどまろうとすることのなかに、希望を覗かせていたような気がする。主人公である織田照朝と最初のライヴァルであるマルコ・ベルモンドの対決を含めた1巻の段階で、父子の関係が重要な柱となっていることは明らかであった。それが最後の対決に大きな意味合いと物語の展開に一貫性とを与えている。父親の果たせなかった偉業を主人公が代理し、果たしてきたことが独善とは異なった種類の幸福と勝利とに繋がったのだ。

 まあ、高校生にして大財閥の会長、容姿端麗で頭脳も優秀という主人公のスペックは、トゥー・マッチだよね、ではある。しかし、思春期特有の正義感と理想主義とが様々な局面で生きてきたことを忘れてはならない。理知的で一癖も二癖もある登場人物が揃っていた点は、マンガの魅力を考える上で大きい。と同時に、主人公の正義感と理想主義とが彼らにもたらした影響のはっきりとした痕跡こそが、『ACMA:GAME』の核であろう。ギャングのマルコにはじまり、ついには悪魔のガドまでも落としてしまった照朝の人たらしの才能は、そのオーヴァーなスペックであるよりも、その強固な意志の発揮された結果として理解されるべきだと思う。
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