ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2004年08月14日
 元来、仏教には、キリスト教のような「神」という超越者は存在しない。なぜならば仏教においては、すべてを乗り越えた先にあるのは「空」という認識だからである。〈空とは、一切が関係の中にあり、実体はないということである〉。
 けれども今日、僕たちは、仏教においても「神」様のような誰かを見出そうとしてしまう。なぜか?それは、いま仏教と呼べるものは、近代=開国後において改めて発見されたものだからだ。そこには西洋の影が、目に見えない微粒子のカタチで混ざり込んでいる。

 たとえば、邦楽でも洋楽でもいい、つまり日本語でも英語でもいい、あるアーティストが、天国のドアを叩く、とうたったとき、聴き手であるところのこちらには、なにか「天国」なるもののイメージが想起されるが、しかし、それはいったい何に基づいているのだろうか、ああ、そうだね、僕たちは「天国」とは遠からず「heaven」の別名であることをほとんど無意識のうちに知っているとか、そういう話。

 とはいえ、べつにグローバリゼーションのことについて言っているわけではない。そうではなくて、歴史における反復のことを言っているのだ。なぜならば、それは時と場合こそ違えど、地球のあらゆる場所で、過去に起きたことと立場を同じとするからである。〈反復がありうるのは出来事(内容)ではなく、その形式(構造)においてである〉。そのような形式(構造)の反復によって、この世界は成り立っている。そして僕たちは、いつだってそれを乗り越えてゆこうとする、そのことだけが出来事(内容)として認知されるのだった。
 たぶんね。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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