ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年06月12日
 エロマンガ島の三人 長嶋有異色作品集

 以前にも触れたことがあるけれど、長嶋有『ジャージの二人』文庫版の解説で、柴崎友香が〈長嶋さんは、この小説では魚肉ソーセージやジャージや漫画、ほかの小説でもゲームとか駄菓子や電化製品を書いているけれど、それらは決して語り手の持っているノスタルジーや感傷を表す「小道具」として配置されたりはしない。いつも、モノたちは主人公の気持ちとは関係なくなんだかそこにあるのであって、モノに対して語り手は「なんでこのパッケージはこうなってるんだろう」というようにあくまでも対象として興味を注ぐ。/ 関心が自分の外にあること、自分とほかのものが独立して存在していること。これはとても重要なことで、小説では(普段の生活でもそうだけど、小説では特に)油断すると、自分の感情や言いたいことのほうに、あらゆるものを引き込んで意味づけをしてしまう危険がある。だけど、長嶋さんの小説ではちゃんと、「僕」と「魚肉ソーセージ」は「他人」になっている〉と書いていて、これはたしかに『ジャージの二人』に対する感想として、ある程度の説得力を持っている。しかしながら一方で、そうした〈魚肉ソーセージやジャージや漫画、ほかの小説でもゲームとか駄菓子や電化製品〉に付せられたブランドや商品名つまりコピーライト的な固有名詞が(暗喩的または換喩的な意味すらも飲み込んで)含む情報量を、さりげなく無視してしまっている点には、留意しておくべきだろう、と考えるのは、『群像』7月号掲載の創作合評に取り上げられている柴崎の『主題歌』について、島田雅彦が、作中に出てくるバンド名である〈ROVOが何かのメタファーになっていること?〉と尋ねたことに、陣野俊史が〈メタファーではないと思います。では、どんな意味内容を持っているのかと言われると困るし、効果があるのか、と言われれば、特に効果的とはいえませんけど……。ただ、ROVOを知っている人は、ああそうかと思います〉と答えるのを受けて、その世界の狭さを〈小説に拡張的な傾向を求める人間としては、ここまで狭くていいのかと思ってしまうわけです〉といっているのを読んだからなのだった。

 固有名詞は、ふつう、それが何かしらかの対象を指し示す、という役割を持っている以上、そこではその固有名詞でなければならない、そういう場面を有する。たとえば柴崎『主題歌』のなかにおいて、あそこの場面でROVOはやはりROVOでなければならなかったのだろうし、なぜそうでなければならなかったのか、とくに理由もなく、無意識であったならばどうしてなのか、を考えることは、柴崎が『ジャージの二人』文庫版の解説で〈評論は小説を通して時代性や現代性を研究するものだから、ある程度縦軸横軸に位置づけたりするものだし、謎解きが楽しみな小説もあるかもしれない〉というのとはまた異なったレベルで、ときには必要とされるべきものであろう。なんで、と問われると、まだうまくはまとめられないので困ってしまうのだが、もしかすると福田和也が、『新潮』6月号掲載の「わが戦前(第十回)」で指摘している、保坂和志の小説におけるある種の都合のよさ、に通ずる問題なのかもしれない。

 と、そういえば、ここでの本題は、長嶋有の異色作品集『エロマンガ島の三人』なのだが、その表題作のなかにも、わりと多くの固有名詞が並んでいるのだけれど、もちろん、それらは柴崎のいうように〈決して語り手の持っているノスタルジーや感傷を表す「小道具」として配置されたりは〉していないとしても、その固有名詞が持っている情報量か、そうでなければ、そうした情報量を処理する書き手の能力が、小説の内容を左右しているのは、あきらかである。「たとえば『ペンギンクラブ』だけがエロ漫画ってわけじゃないんですからね。『快楽天』だって『ばんがいち』だって全部撮らないと、エロに失礼ですよ。『これまでは任天堂のファミコンばかりがゲームだったけど、次世代機の時代はセガもソニーどんどん活躍して、それでゲームは前以上に豊饒になっていくんだよ、それが文化だー』って、佐藤さんいってたじゃないですか、同じことですよ!」これをこうして書くこと、書けること、それは意味があることなのか、ないことなのか、絶対に必要なのか、そうではないのか。ところで長嶋は、『群像』7月号に掲載されている大江健三郎との、第一回大江健三郎賞記念対談「若い作家の言葉の力を世界に押し出す」のなかで、大江に〈あなたは、文学的にどういうふうに栄養を満たして、蓄えてきたんですか〉と問われ、次のようにいっている。〈それは自分でも漠然としかわからないのですが……だから「栄養」という言葉になるんですね。ただ、文学からの直接的な栄養ではないにしろ、なにかを代わりに摂取してきた。だから小説が書けるし、その「栄養」が満ちていることにはなんとなく自信があって(略) それは、つまり魚のとれない地方の人はどうやってある種類の栄養素をとっているのかといったら、ヤギの乳にあったみたいな、山の奥の人は絶対にその食べ物を食べられないけれども、ちゃんと人間として生きているみたいなことです。小説を書くための「栄養」は本にもあるし、本ではないものにもあるだろう。/ 僕の場合、はじめは多分、漫画でした〉。要するに、ここで「栄養」といわれているものが、どういうふうな言葉の運動となって現れる、現れているから、これを愉しめるのか、小説「エロマンガ島の三人」を読みながら、ふと、そんなことが気になったりもするのである。

 さて。エロマンガ島でエロ・マンガを読む、という馬鹿げた企画をサブカル系のゲーム雑誌に出したら、通ってしまったため、海を越え、彼の地へ飛んだ三人組の道中を捉まえる「エロマンガ島の三人」のほか、この作品集には、四篇の小説が収められていて、作者のべつの作品『パラレル』で、語り手の親友だった顔面至上主義者の津田を主人公とする「ケージ、アンプル、箱」と、あと「エロマンガ島の三人」の番外編的な位置にあたる「青色LED」が、個人的には、控え目な寂しさというか、異色作品集とはいっても作家自身のカラーがよく出ているようでいて、好き。

 『夕子ちゃんの近道』について→こちら
 『泣かない女はいない』について→こちら
 『いろんな気持ちが本当の気持ち』(エッセイ)について→こちら

・ブルボン小林名義
 『ぐっとくる題名』について→こちら
 『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』について→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | 読書(07年)
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