ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2016年10月11日
 マル勇九ノ島さん 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 木佐貫卓の『マル勇 九ノ島さん』は、ロール・プレイング・ゲーム、さらにはMORPGの発想が一般的になった現代ならではのマンガである。中世を模した剣と魔法のファンタジーでありながら、近代以降の認識が著しく強調されているという意味では、ライトノベルやアニメーションにおいて『ソードアート・オンライン』や『まおゆう魔王勇者』の先行例がある。文脈的には、それらに近いと感じられる。勇者(光)と魔王(影)の対照がミッションとして複数化された世界をまたぎ、メタのレベルから勇者をサポートするかのような職業を題材としているのだ。

 ユグドラシルの大樹として定義された宇宙では、さまざまに世界は枝分かれしており、それぞれに独立している。しかし、魔王が世界を滅ぼそうとし、勇者が世界を救おうとしている点は、どの世界も共通している。一つの世界で魔王が勝利すれば、ユグドラシルの腐敗は進んでいき、一つの世界で勇者が勝利をすれば、ユグドラシルは新たな枝を伸ばしていくのである。「H・S・C(ヒーロー・サポート・カンパニー)」の仕事は、ユグドラシルの腐敗を防ぐべく、勇者の活躍をワキから助けることであった。なかでも勇者と直接関わる営業部は「マル勇」と呼ばれる。「H・S・C」の華であって、それに憧れる新入社員のフォアは、入社式の日、最低な印象の上司、営業3課の課長である九ノ島竜一に出会う。

 営業3課に配属されたヒロインのフォアが、最初に取りかかるケースに明らかな通り、勇者の挫折と再起とが大まかなテーマであろう。九ノ島は、精悍なイメージとは違った勇者と出会い、困惑するフォアに〈勇者は聖人君子じゃない / 一人の 人間だ / 人は考え迷い / 間違うんだ〉と言うのである。これはもちろん、伝説や神話として確立されているはずの英雄を、今日の視線を通じ、堕しているにすぎない。人間的であるがゆえに敗北もありえるという矮小化によって勇者が描かれているのだ。もっというなら、世界を救うという重大事を背負うにはあまりにも人間的すぎる勇者の卑近さが、「H・S・C」や「マル勇」を介在させているのである。

 フォアと同様、営業3課に配属された新入社員のフレイヤが、魔王との戦いで多くのものを失い、消沈してしまった勇者を見、〈たとえ大切な人を亡くしても / 魔王討伐という大義を蔑ろにしていいはずがない〉と述べるのに対し、九ノ島に〈フレイヤお前は正しすぎてダメだ〉と忠告させている。おそらく、フレイヤの主張は正論である。なぜ、それが否定されなければならないのか。繰り返しになるが、中世を模した剣と魔法のファンタジーだからこその価値観が、近代から現代へと至るなかで生成された認識に上書きされていることを意味しているのだと思う。少なくとも、それがドラマのレベルで作品を支えるものとなっている。

 1巻を読むかぎり、会社員のマンガや女性誌のマンガとも並べることができるような文法が入ってきている。それがちょっとおもしろいし、独自性として十分に生きていたら、と惜しまれるところがある。
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