ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2016年08月30日
 カノジョは嘘を愛しすぎてる 20 (Cheeseフラワーコミックス)
 
 持つ者と持たざる者とが自然と共存させられるこの世界の枠組みのなかに結果として生じるエモーションを、青木琴美の『カノジョは嘘を愛しすぎてる』は、20巻に入ってもなお掴み続けている。もちろん、持つ者と持たざる者の対照は、必然的に不平等を含まざるをえないのだったが、決して悲劇を弄ぶかのような展開に終始せず、ときには優しく微笑まされるかのようなドラマをも内蔵しているところ、明と暗とがどぎつい線引きに冷たさを際立たせているというより、調和がとれたコントラストのあたたかさを描き出しているところに、胸を衝かれるのである。持つ者と持たざる者とが自然と共存させられるこの世界の枠組みとは、それが絶え間のない日常でもあることを含意している。ロック・バンドや芸能界の過剰なアピアランスをモチーフにしたマンガではあるけれど、むしろ、我々がよく知る日常の秀逸な戯画となっている点に、魅力の多くが同居しているのだと思う。

 ここ数巻、おそらくは16巻からフロントマンである坂口瞬の家庭の事情のために活動休止が決定したCRUDE PLAYをめぐり、ストーリーは大きく動いてきた。が、やはり、主軸は、持つ者と持たざる者の対照(才能に恵まれた人間と恵まれなかった人間、機会を与えられた人間と与えられなかった人間、努力が実った人間と報われなかった人間etc.の対照)にあったといえる。なかでも、CRUDE PLAYのオリジナル・メンバーである小笠原秋と彼の代わりにCRUDE PLAYへ入った篠原心也の心理的な綱引きは、連載の当初より看過できないものではあったけれど、さらに緊張の度合いを増すこととなっていった。ソング・ライターとしては秋に敗北しながらもベース・プレイヤーとしての腕を高く買われている心也、そして、ベース・プレイヤーとしては心也に劣りながらもソング・ライターとしての非凡さを有している秋の二人は、お互いに相手が自分には果たせない価値を持っていることを知っている。がゆえに、相手の立場と自分の立場とが交換不可能であることを痛感せざるをえない。しかし、注意を払いたいのは、それが同時に欠落を抱えた存在同士がお互いの欠落を埋め合うかのような認識を二人のあいだにもたらしている点であろう。持つ者と持たざる者の対照は、確実な優劣となって現れる。一方で、自分にとって特別な存在があるとしたら何がそうなのかの証明を兼ねているのである。

 秋と心也の心理的な綱引きは、ヒロインである小枝理子を真ん中に置いたとき、恋愛の三角関係と近いイメージに結びついていく。もちろん、『カノジョは嘘を愛しすぎてる』とは、理子という少女のラヴ・ロマンスであり、彼女の成長物語でもある。幼馴染みの少年たちとバンドを組み、まだ高校生でありながらもヴォーカリストしてのキャリアをスタートさせた理子が、様々な出会いを経、自分の価値を新しく得る姿がストーリーに起伏を与えている。プロフェッショナルなアーティスト、ミュージシャンの秋や心也に比べ、デビューしたばかりで実績がない理子に対する世間の評価は、ワン・オブ・ゼムを見るそれにすぎない。では、どうして秋や心也が彼女に惹かれるのか。単に若くてキュートだからだろうか。それとも才能の片鱗と可能性とをうかがわせるからだろうか。いや、もう少し奥まった箇所に理由を求めても良い。たぶん、理子だけが作中で唯一、欠落を抱えてはいない存在であるかのように描かれているのだ。この欠落を免れているかのように見えることが、秋と心也を含めた他の登場人物の目に眩しさを導き出しているのではないか。

 本来なら極めて立場が弱いはずの理子が他の登場人物の目にとっては眩しい。ここにも持つ者と持たざる者の対照を指摘することができるであろう。理子をスカウトしたプロデューサー、高樹総一郎の過去の挫折が語られるのも20巻である。高樹が手掛けているCRUDE PLAY、そして、理子のMUSH&Co.は、かつて彼が在籍し、解散に追い詰められてしまったWANDER LINEの成り立ちを、ある面では踏襲している。理子の幼馴染みであり、MUSH&Co.のメンバーとなった君嶋祐一と山崎蒼太の不遇は、CRUDE PLAYにおける大野薫と矢崎哲平のコンプレックスを反復している。理子の眩しさに自分の欠落を突きつけられようが、MUSH&Co.で踏ん張り続ける祐一と蒼太の姿は、上の世代の敗北を下の世代が乗り越えていくというストーリーに読み替えられるものだ。

 1、2巻について→こちら
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