ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2016年06月23日
 リクドウ 8 (ヤングジャンプコミックス)

 どうして格闘マンガは父殺しのテーマを免れないのか、と思うときがある。たとえば、90年代以降を代表する二つの巨大な作品、板垣恵介の『刃牙』シリーズや猿渡哲也の『タフ』シリーズは、父の脅威は決して越えられないという帰着を得ると同時に物語そのものの方向性に曖昧さが出てしまったし、川原正敏の『修羅の門』シリーズでさえ、最終的には父殺しのテーマに辿り着いていったのである。あらかじめ父殺しを果たしていたのは、たなか亜希夫の『軍鶏』だが、物語の途中で空中分解を見せたのみならず、結局のところ、父の束縛に苦しむ少女の闘争を主人公が代行するといった展開から破滅と似たエンディングへ向かうこととなったのであった。近年でも遠藤浩輝の『オールラウンダー廻』や太田モアレの『鉄風』など、必ずしも父殺しのテーマを逃れていない作品を挙げられる。後者においては、引きこもりとなった兄の存在が家父長の役割を兼ねているといえるだろう。

 狭義ではボクシング・マンガになるのだけれど、広義では格闘マンガに入れられる松原利光の『リクドウ』も、やはり、父殺しのテーマと無縁ではないことは、1巻の段階で明らかだった。なにせ、父親の自殺、そして、母親の恋人(要するに義父のポジションに近い人物)の殺害を、物語の出発点にしているのである。もちろん、ボクシング・マンガの歴史を振り返るなら、ちばてつやの『あしたのジョー』以来の孤児の系譜を反復しているわけでもある。『あしたのジョー』と『リクドウ』の年月の開きのあいだに、同じく父の不在を師匠にあたるトレーナーが肩代わりしているタイプの作品である森川ジョージの『はじめの一歩』を置いてみるとき、両者の相違あるいは類似は、よりはっきりとするであろう。なぜ父が失われているのか。60年代から70年代にかけて描かれた『あしたのジョー』と90年代を舞台に描かれ続けている『はじめの一歩』と2010年代に描かれ出した『リクドウ』とでは、背景がまったく異なっている。これを各々の時代性の反映と換言しても良い。反面、『リクドウ』における血と汗とをない交ぜにした青春の暗さには『はじめの一歩』よりも『あしたのジョー』と共通するところがあるのだ。

 自分を認めてくれない者といかに向き合うか。父殺しのテーマに通じていくような抑圧のイメージは、『リクドウ』の主人公、芥生リクにとって序盤の最大のライヴァル、兵動楓のモチベーションを支配するものでもあった。それがリクとリクをボクシングへと導いた所沢京介の関係では、自分を認めてくれた者といかに向き合うか、の図式に反転させられている。さらに付言するのであれば、自分を認めてくれない者といかに向き合うか、もしくは自分を認めてくれた者といかに向き合うか、という問いかけは、自覚していようと無自覚であろうと『リクドウ』の登場人物のおおよそに内蔵されている。この意味で物語の支柱にほかならない。7巻と8巻に渡り、繰り広げられてきたエドガルド・ガーベラとの対戦を通じ、ヒロインである苗代ユキとリクの関係に確かな変化が生じた。かつてリクが預けられていた施設の職員がそうであったように、女性の存在が登場人物たちに何かしらの影をもたらしていることも『リクドウ』の特徴の一つなのである。
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