ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2016年05月31日
 ハニーレモンソーダ 1 (りぼんマスコットコミックス)

 1巻の段階で既にボロボロ泣いてしまっている。村田真優の『ハニーレモンソーダ』である。これは自分には安達哲の『ホワイトアルバム』や『キラキラ!』といった作品をはじめて読んだときのことを思い出させてくれる。安達の初期の作品には、80年代の少女マンガ、たとえば紡木たく等のカラーを少年マンガのジャンルに転移させたところがある。そこにあった痛々しくも淡い青春のイメージが、数周して少女マンガに帰ってきたような感覚が『ハニーレモンソーダ』には備わっているのであった。

 ああ、〈何のために変わりたいの? 学校で居場所を見つけるため? それもあるけど1番は 少しでも君に近づけるため〉だという大変小さいながらも切実な少女の願いに寄り添った物語の幕があがる。

 ヒロインの石森羽花は、成績が優秀で本来なら難関校である真聖学園へと進学するはずだった。が、夜の街でとある少年からかけられた言葉に心を動かされ、派手な生徒が多いことで知られる八美津高校に入学するのであった。それは羽花にとっての大きな冒険でもあった。なぜなら、中学の頃はいじめられ、周囲に「石」と呼ばれるほど感情と表情とを固くさせなければ、クラスに身を置けないような毎日を送っていたためだ。しかし、八美津高校への入学を期に自分を変えよう。あの少年、八美津高校に進学するのだと言っていたレモン色の髪の毛の少年との再会を信じようと願う。果たして羽花の高校生活は、あの憧れたレモン色の髪の毛の少年、三浦界とクラスメイトになったことからはじまったのである。

 地味な少女と不良っぽい少年のボーイ・ミーツ・ガールが基本にある点は、ラヴ・ストーリーや学園もののスタートとして類型的であるし、古典的でもある。反面、内気な性格のせいで同級生たちなどに省かれることを「ぼっち」と名指しうる立場のクローズ・アップは、確かにコンテンポラリーではあるけれど、現代における類型的な見方を免れてはいない。もちろん、作者は作者なりに時代の空気を取り込もうとしているのだろうが、それは必ずしも目新しさに直結するものではない。類型的であるにもかかわらず、それを普遍的だと言い換えられるようなシチュエーションや話運びのなか、登場人物の微かでも確かな足音が響き渡っていく。その響きを通じ、等身大の孤独を描き出すことに成功しているのだ。

 羽花の内面、つまりはモノローグに示されている言葉の成り立ちは、ほとんどポエムである。しかし、ポエムであること自体に彼女の切実さが宿っているわけではない。ポエムがどこからやってきているのか。他の登場人物との関わり、とりわけ界との関わりによってもたらされた少女の内面の変化が、カットの一つ一つやそれらを結び付けるコマ割りを含め、つぶさに把握できるぐらいに表されているので、その切実さに胸を衝かれることとなる。

 少女の内面に変化を生じさせるきっかけが不良っぽい少年であり、彼が「リア充」と称されている点に批判的な向きもいるかもしれない。ただし、それは表面上のデザインの問題にすぎない。注意されたいのは、ヒロインである少女、石森羽花の目に、この世界はいかなるものとして映っているか、なのである。そう考えるとき、三浦界とは、これまでに羽花が目にしたことのない可能性を、あるいは否応なしに自分の欠落を突きつけられるインパクトを代替しており、羽化が界に憧れを抱くのは、彼が単に「リア充」と目されるような人間だからなのではないとわかる。結局のところ、誰の憧れも踏み越えなければならないラインの向こう側に存在している。

 かつて「石」と呼ばれていた羽花にとって界の言葉が魔法と似た励ましを持っているのも、以上の理由によっているのだ。〈確かに あの時 オレが声をかけた でも そんなのは ただのきっかけで あそこから飛び出した力は石森のものだ 今までの自分に引きずられなくていい 石でも おまえは宝石なんだよ〉

・その他村田真優に関する文章
 『またあした』2巻について→こちら
 『イン ザ チョコレート』について→こちら
 『妄想シンデレラ』について→こちら
 『ドクロ×ハート』について→こちら
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