ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2016年05月20日
 かみさまドロップ 10 (少年チャンピオン・コミックス)

 いま現在、自分が最も注目している少年マンガのラブコメが、これ。みなもと悠の『かみさまドロップ』である。なぜなら、少年マンガのラブコメに特徴的なハーレム型のシチュエーションを備えながら、そのシチュエーション自体を正しく試練の形へと転化することで、主人公である少年の成長はもとより、少年やヒロインたちの苦渋と決断とを、ほとんど直接的に描いている。そこに心を動かされるものがあるからだ。

 確かにカヴァーの表紙の女の子の胸の大きさは、変態かギャグでしかないものの、ストーリーとテーマのレベルでは、非常に生真面目な作品となっているのである。

 どうして、主人公、野分あすなろは、生まれつき、不運な目にばかり遭ってきたのか。ついに前巻(9巻)で、衝撃の事実が明かされた。あすなろにとって片想いの相手であるバンビ(橋姫万里)がまだ母親のお腹にいた頃、その母親が交通事故に見舞われ、あわや死産の直前になってしまう。このとき、かつて「神」に封じられた「蛇」がバンビの両親に囁きかけるのである。バンビと同じ日に生まれる予定のとある命が持っているすべての幸運を奪ったならば、娘の命は助けられる。それが自分にはできる、と。まるで悪魔との契約だが、娘のためにバンビの母親は承諾してしまう。そして、それは同時に「蛇」が再び現世に解き放たれることをも意味していた。

 もちろん、察せられるとおり、バンビを生かすために奪われたのは、あすなろが本来持って生まれてくるはずの幸運なのであった。この事実をバンビの許嫁となった「蛇」の口から聞かされたあすなろは、果たしていかなる気持ちでバンビと向き合うのか。ずっと呪ってきた自分の不運が、自分の与り知らぬところで、自分が信じていた人間によってもたらされていたのだ。

 少年マンガのラブコメ、とりわけハーレム型のシチュエーションのものにおいて、主人公の少年が優柔不断であることは、作品の性質上、欠かせない条件であろう。自分の気持ちやパートナーを決定しないという引き延ばしを物語として見させようというケースが少なくはないのである。『かみさまドロップ』の野分あすなろもまた、当初は優柔不断であることを免れてはいなかったのだが、しかし、様々な変化や経験こそが物語と呼ぶのに相応しい展開を経てきた結果、優柔不断は越えられるのだということを、この10巻は描いているように思われる。

 確かに、あすなろは、ヒロインであるバンビに対し、一途ではあった。けれど、自分は彼女に釣り合っていないのではないかという迷いが、もう一人のヒロインであるエル(得)をはじめとした他の女の子たちとの結びつきを生じさせていたのである。当然、そうした図式は、主人公の優柔不断が解消されると同時に改められることとなる。

 生まれてくる以前の段階で自分の人生が狂わされ、すべての原因が最愛の人物にあったというのは、災難にほかならない。それを知ってしまったあすなろは、バンビ(とバンビの両親)を恨むのか。許すのか。苦渋を与えられ、決断を迫られているのと同様の状態に陥るのであった。

 あすなろの決断は、先に述べたように作中の図式を大きく改める。契機でもある。あすなろとバンビのハッピー・エンドにも似た光景は、あすなろの恋のサポートに撤してきたエルに不意の虚しさをもたらす。あすなろが願い、あすなろのためにエルが叶えようとしていたはずの光景は、しかし、エルの働きかけをよそに見事な輝きをまとってしまったのである。ああ、〈運と命 まさに「運命」と呼ばれるソレで あやつらははじめから結ばれておったのじゃな…… それならば……… わしのしてきたことは一体何だったのかのう……〉

 もしも「神」が「人間」の願いを叶えるために存在しているのだとしたら、「人間」の願いが叶うということに「神」が不要のものになるということが含意されるのだろうか。あるいは「人間」でしかないあすなろが「神」であるエルに報いることは可能か。こうした問いを伴い、クライマックスへと向かいはじめているかのような局面と新しい図式とが迎え入れられている。

 6巻について→こちら
この記事へのコメント
こちらのブログの更新が滞っていると不安になってしまいますね……
まだまだ評して貰いたい漫画作品があるんだから。

とりあえず山本隆一郎先生の新連載「元ヤン」が待ってますよ
(あと高橋ヒロシ原作のオーレンズは、その……別にイイかな)。
Posted by 流浪牙-NAGARE@KIBA- at 2016年05月20日 20:59
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