ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2016年04月11日
 AIの遺電子 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 心は何に、そして、どこに宿るのか。こうした問いには、それが一定の普遍性を持っているがため、胸を衝かれるものがある。根拠になりうるほどの根拠はなかろうと、心は必ずや存在するという思いなしの上に我々の生活が成り立っているのだと感じられる場面は決して少なくないのである。

 山田胡瓜の『AIの遺電子』は、ヒューマノイドが人権を得た未来、主にヒューマノイドの治療に当たっている医師、須堂が立ち会ってきた様々なケースを描く。オムニバスの形式で編まれたマンガだ。AIに人格は認められるのか。これはマンガに限らず、SFの小説や映画に古今東西からあるテーマだろう。また、医師と患者の苦悩をオムニバスの形式に編んだ作品ということであれば、その多くがヒューマニズムに対するアウフヘーベンを内包しながら、現在もあまた登場している。スタイルについて、目新しさのみで判じることはできない。が、双方の要素を、おそらくは最良の形で結束させているのが『AIの遺電子』だと思う。

 心が存在することの不確かさをベースにしたマンガであるからか、安易な感動とはいくらか距離を置いたエピソードが並んでいる。ドライな選択や結末に、ああ、と切なくさせられるエピソードもある。だが、選択や結末がどうであるより、その選択や結末に至った逡巡のなかに、不確かなもの(本質的には証明不可能であるはずの心の存在)の確かさが導かれているのである。

 とりわけ、この1巻に収められた3話目には、はっとさせられる。とある少年が大切にしているクマのぬいぐるみ、簡素なプログラムの入ったロボットの修復を須堂に頼むのだったが、修復されたことでぬいぐるみは、それはつまり、中古で買われてきたぬいぐるみだったのだけれど、以前の持ち主のデータと現在の持ち主の少年とを混同してしまうようになるのであった。ぬいぐるみの混同は、短いストーリーに対し、何層ものレイヤーの重なり、解釈の幅を持ち込んでいる。心はどこに宿るのか。こうした問いは、その人間にこの世界はどんな見え方をしているのかを問うものにもなる。ぬいぐるみ、少年、少年の母親のトライアングルは、家族や死のイメージに繋がっていくものでもある。

 さしあたり、モッガディートやMICHI等の単語の指しているところが具体的ではないところを含め、謎めいた須堂のプロフィールは、『AIの遺電子』の全体にとっての伏線をなすものであろう。ときおり覗かせる憂いや笑みは非常に印象的だ。が、現段階では、患者たちにもたらされる逡巡にこそ、物語の重みはかかっている。
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