ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2016年03月01日
 アダムとイブ 1 (ビッグコミックス)

 山本英夫は『おカマ白書』の頃から余裕のない人間(臆病な人間)を中心的に描いてきたのではないかと思わされるときがある。しかし、自身は原作に回り、池上遼一とタッグを組んだ『アダムとイブ』の1巻を読むと、余裕のない人間(臆病な人間)の過剰なアピールは、山本の強迫観念を前面に出しているかのような画の描き方とのマッチングによって生じていたところが大きかったのだと気づかされる。

 そのクラブでは特殊な能力を持ったヤクザたちの密会が開かれていた。彼らの素性がばれないようにホステスは目隠しをされている。真ん中の席に座り、スメルを呼ばれる男は言った。〈俺たちは「影」であり「裏」であり「秘密」に撤しなければいけない。決して姿を現してはいけない。決して姿を見せてはいけない。決して姿を知られてはいけない。それはまるで透明人間ばりに、です…〉と。

 だが、まさか。自分たちが透明人間の襲撃を受けるとは想像すらしなかっただろう。正体が不明=姿の目視できない男女二人組の凶行に突然さらされ、ヤクザたちは次々と命を落としていくのである。果たして密室状態となった一室に何が起こっているのか。不可思議な状況に陥ったヤクザたちだったが、一切臆することなく、特殊な能力を通じ、珍妙な侵入者に反撃を加えようとするのだった。

 山本の作品を踏まえるならば、『殺し屋1』と『ホムンクルス』のミックスに近い成り立ちをしている。フィジカルとメンタルの限界値が暴力という名の計測器にかけられることで明るみとなり、危機的な場面と展開とが作られていくのだ。他方、池上の画が作品にもたらしているのは、危機的な場面や展開に見舞われながらも貫禄を手放さない姿が狂人を彷彿とさせうる、そのイメージである。

 ある種のトラウマに囚われた者が進んで破滅に向かっていくかのような予感は、山本の作品に顕著なものであって、それはびんびんに張り巡らされている。実際、オブセッションに追い詰められ、死に飛び込んでしまうヤクザも出てくるのである。ひとたび仮面を剥がされれば、余裕のない人間(臆病な人間)の正体が隠されているとする際、そこからは『のぞき屋』や『ホムンクルス』の残像を得ることもできるだろう。

 しかし、現時点では(としておくけれど)いかにも池上遼一の主人公のタッチで描かれるスメルには、そのような弱点をにおわせないだけの貫禄がある。

 たとえば、磨き抜かれたガラスとダイヤモンドは、一見すると区別がつかないにもかからず、強度に圧倒的な差異を存在させている。こうした真偽の埋没してしまう可能性をエキセントリックな心理の源泉へと置き換えることこそが山本の作品にかかっているプレッシャーだとするのであれば、『アダムとイブ』におけるスメルには、確かにエキセントリックな心理を覗かせはするものの、ダイヤモンドの強度のような凄まじさを今後も崩さないのではないかと信じさせられるのだ。

 スメルのカリスマの堅牢さは、池上の強迫観念に物怖じしないかのような画の描き方からきているところが大きい。もちろん、スメルが『殺し屋1』の垣原と同様、いずれペルソナの敗北を迎えてもおかしくはない。だが、この段階では正体が不明の敵と無敵の超人の非情なバトルがスリリングに繰り広げられている。

・その他池上遼一に関する文章
 『SOUL 覇 第2章』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『覇 -LORD-』
  19巻について→こちら
  17巻について→こちら
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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