ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2016年01月24日
 真マジンガーZERO vs暗黒大将軍 8 (チャンピオンREDコミックス)

 神はサイコロを振らないという。偶然はない。必然しかない。それでも。前巻(7巻)のラストにおいて、兜甲児は必死の抵抗を試みる。〈でも俺は違う 最後まで足掻く!!! サイコロをふらせろ〉と。〈勝負させてくれ!!!〉と。〈どうも何もない 戦うんだよ! ちょっとの間 神様は目をつぶってくれてりゃあいいんだ!!!〉そう、要求するのであった。

 無限に繰り返されてきた破滅を防ぐべく、いよいよ最後の決戦の幕が開く。『真マジンガーZERO vs 暗黒大将軍』の最終巻(8巻)である。いや、これはしかし。おそらくは傑作になりえたマンガであったろう。だが、もしかしたら問題作とも取れる方向へと舵を切った印象になった。作者(田畑由秋・余湖裕輝)の判断は、賛否両論に分かれるものかもしれない。とはいえ、並行世界やループものにかかるメタ・フィクショナルな認識が、ここまで一般化された現在に共鳴しつつ、その可能性と限界とをきっちり手応えのなかに収めていることは間違いない。

 我々の世界が、他にもありえた筋書きやそこに至っていく分岐を多数、ア・プリオリに含んでいるのだとすれば、今このときは、神がこしらえた二次創作の一つにすぎないのではないか。こうした仮説を前提にする際、では、あまたある二次創作の一つの一部にすぎない我々が、作者である神や並列している他の二次創作に関与することはできるのか。サイコロを振らないはずの神を前にした兜甲児の必死の抵抗は、以上のような問いを肩代わりしているといえる。当然、論理的には不可能と見なされるだろう。重視されたいのは、それが不可能であったとしても、トライするだけの意味は必ずやある、と信じ抜く一個の人間の姿が、熱量の高いドラマを生んでいる点なのであって、そのドラマは、やがて、人間は神によって表されたものだとされる反面、神こそが人間によって想像されたものなのではないか、という逆転を導いてくるのである。

 前作にあたる『真マジンガーZERO』と合わせ、『真マジンガーZERO vs 暗黒大将軍』自体が(公式の)二次創作みたいなものである。あるいは『真マジンガーZERO』が、オリジナルの『マジンガーZ』をヴァージョン・アップ(今風にいうならリブート)した作品であるとしたら、『真マジンガーZERO vs 暗黒大将軍』は、『真マジンガーZERO』をさらにヴァージョン・アップした作品でもある。無論、作中のグレートマジンガーは、マジンガーZをヴァージョン・アップしたマシーンにほかならない。はたまた、マンガやアニメのジャンルでは、『マジンガーZ』から派生し、パイロット搭載型のロボットを題材にした作品がいくつも誕生した等々。これらの視点を盛り込みながら、兜甲児とマジンガーZEROの対決は、未曾有の事態を招き入れていく。

 正直なところ、シリアスさの極まった展開なのに、アンパンを食べる駄洒落が物語を大きく動かすためのキーとなっているあたり、ちょっと鼻白むものがある。最高にヒートしたテンションを返せ、と思わざるをえないのだけれど、それはコメディやサスペンスにかかわらず、リプレイをモチーフとした様々な作品のパターンを参照し、一つにはギャグの形として導入した(換言すると、リプレイをモチーフとした作品はサスペンスばかりではない。コメディにまで及んでいるマナーをも集積し、統合しようとした)結果なのだと受け取っておきたい。

 そして、まさか。並行世界やループものにかかっているメタ・フィクショナルな認識と二次創作の概念を基礎としたメタ・フィクショナルな認識の混在が、テレビ・ゲームの『スーパーロボット大戦』を連想させるような局面を、物語のなかに召還させるのだ。

 確かに『グレンダイザー』とのクロスオーヴァーなど、これまで他の永井豪の作品の引用は見られてきた。しかし、それがあくまでも『真マジンガーZERO vs 暗黒大将軍』という枠組みを再確認するための方便であったとしたら、ここでは『真マジンガーZERO vs 暗黒大将軍』という枠組みの外側に目を向けさせるための逸脱となっている。兜甲児の言葉を借りるならば〈…俺の心が繋がっている… 過去か 未来か 並行する宇宙なのか いや もっと別の全く違う世界…… マジンガーZEROが知ることのない世界との架け橋 それこそが俺が最後に作った光子力エンジンなんだ!〉こう力説されてはいる。他方、光子力とは、理系もしくはSFのロジックに依拠してきたはずなのに、文系もしくはファンタジーのレトリックにスライドさせられてしまっている(かのように感じられる)ことが、問題作かもしれない理由の一端となっているのである。

 永井豪の作品のみならず、他のマンガやアニメの引用が〈想像力がついていけないのか 俺にも光にしか見えないぜ〉とぼかされているのは、それを作中のレベルで認知できないからである以前に、著作権の問題にすぎないのではないか、という疑問の差し込まれる余地が残った。いや、生まれてしまっているのである。と同時に、オリジナルの『マジンガーZ』に帰属していた固有性も薄まってしまっているように思われる。兜甲児と剣鉄也の揃い踏みが、かつてのハイライトほど燃えてこないのは、たぶん、そのためであろう。既に描かれたものは描くことができる。だが、いまだ描かれていないものは描くことができない。こうした境界線をいかに解釈するかで、作品に対する評価も変わってくるに違いない。

 ああ、それでもやはり、プロの戦士であるがゆえに屈託なく死闘を繰り広げてきた剣鉄也のガッツこそが(中盤以降の)最大のフックであったな、という気がする。その活躍は、7巻の段階で、おおよそ終わっていた。地獄大元帥の退場とともに、である。もちろんのこと、『真マジンガーZERO vs 暗黒大将軍』は、兜甲児とZEROの物語としてはじまったかぎり、兜甲児とZEROの物語として閉じられるのが、必然ではある。ただ、剣鉄也が図らずも引き起こしてきた偶然の方に、実は作品の本質は正しく示されていたのではないか、と付言したくなるのだった。

 4巻について→こちら
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