ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2015年12月15日
 愛のようだ

 長嶋有の『愛のようだ』は、帯に書かれている通りの恋愛小説だろうか。恋愛小説というより、恋愛小説のようなものだと思えるし、いや、恋愛小説の真髄とは、結局、このようなものだとも思える。この場合の真髄とは、誰かを深く愛し、誰かに深く愛されたのイベントではなく、果たして他の誰かとの関係がいかなる動きを自分の心にもたらしたか。その様子を注意深く表していることを指したいのである。

 長嶋の作品のなかでは比較的(あくまでも比較的に)ドラマティックな内容だという意味で『パラレル』や『泣かない女はいない』に近い印象がある。さらに男性が語り手だという意味では『パラレル』の方が近い印象である。直接の関連はなく、おそらくは作者の経験から同一のモチーフが選び取られているからなのかもしれないが、登場人物たちのシチュエーションにはいくらか『パラレル』を彷彿とさせるものもある。いずれにせよ、〈バツイチ、フリーランス、やもめ暮らし〉の〈俺〉に見られた――男女の関係を軸足にした――人間模様が作品の彩りの中心に置かれていく。

 家電に注目したものさえあり、たぶん、凶悪犯罪以外はあらゆるものを題材にしてきた作者だけれど、『愛のようだ』においては自動車によるドライヴという時間に大きな役割が与えられている。何人かが乗り合わせた車中では様々な会話が交わされ、そして、カーステレオからは様々な音楽が流される。この音楽あるいは歌(あるいはその歌詞)の存在もまた『愛のようだ』を支える重要な柱だ。それは個々の場面に付随し、付随に基づいた記憶が別個の場面で回想される。しかして、この回想の手順が、最後の場面に、ささやかできめの細かい哀切を呼び込むことになるのであった。

 作中の時間は断章的に進む。個々の場面はリニアに連結されるわけではない。しかし、それらはあくまでも語り手である一人の人間のなかに実感の束として集積されるものであって、換言するのであれば、そうした実感の総和こそが『愛のようだ』にとっての物語と呼べるものにあたるのである。本来、急ぎ足にであれ、ゆるやかにであれ、時間はとどまることを知らない。だが、ゆるやかな部分にのみ目を向けるとき、それはしばしば停滞と同義であるように認識されうる。一切の移動がなく、景色にも代わり映えがなければ、常に動いている時間のなかを生きているはずなのに、それを忘れてしまいかねない。この忘却を、語り手である〈俺〉の視点は思い出させてくれる。

 小説のおしまいの方に、こうある。〈当たり前に、「起こること」のすべては即、過去の事柄なのだが(略)今がその地続きにいる気がしない〉一方、自動車で移動しているときには〈だってもう、あのときとは景色が違う。あのときも。あのときも〉と確かに理解できる。そして〈そういう風に感じていたいと思うときが、生きていてたくさんある(略)あるけど我々は大抵の場合、車に乗って移動してない〉

 もしも『愛のようだ』が恋愛小説なのだとしたら、〈俺〉の心が他の誰かとの関係にどう動かされたかを教えているからであろう。端的に、それは喪失のイメージに辿り着いていく。しかし、〈俺〉が本当に無くしたものは何か。憧憬なのではないかと思う。気持ちを傾けられる特定の対象であるというより、それを含むことで成り立っていた時間に対する憧憬なのではないか。

 手を伸ばせば、届いたかもしれない。が、手を伸ばさずにいることで、しばしのあいだ美しくあり続けていた憧憬の喪失が〈俺〉の心に悔恨にも似た気持ちを及ぼしているのだという気がする。

・その他長嶋有に関する文章
 『三十六号線』第一話「殺人事件」について→こちら
 『エロマンガ島の三人』について→こちら
 『夕子ちゃんの近道』について→こちら
 『泣かない女はいない』について→こちら
 『いろんな気持ちが本当の気持ち』(エッセイ)について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(2015年)
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