ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年05月22日
 シバトラ 1 (1)

 あまりの童顔のため、中学生にしか見られない新人警察官、柴田竹虎の夢は、少年係の刑事になることであった。親友の藤木小次郎だけが知る不思議な能力によって、宝生美月という少女の危機を察した竹虎は、彼女を救おうとし、全力を傾ける。安童夕馬(原作)と朝基まさし(漫画)が三たび組んだ『シバトラ』の第1巻である。不良という立ち位置を、テーマではなくて、あくまでもスペクタクルとしてのみ描く、そのような意味では、同コンビによる『サイコメトラーEIJI』の二番煎じに近しい。もちろん、あれには当時流行りのサイコ・サスペンスの意匠が凝らされていた、と、その部分を重要視するのであれば、ああ、まあ、そうね、といったところではあるけれども、このさいそれは置いておくとして、いや、それも含めて、意味ありげにストーリーは展開されながらも、結局のところ、中身はスカスカだという点こそが、ポイントだといえよう。いま現在『週刊少年マガジン』に、オーソドックスなヤンキー・マンガを見つけられないのは、むしろ、こうしたスペクタクル重視の作品を多く掲載させているためで、そのような傾向は、やはり『サイコメトラーEIJI』の連載がはじまった(あるいは藤沢とおるが『湘南純愛組!』のあとで『GTO』をはじめた)90年代半ばぐらいに強まったのではないか、と思う。『サイコメトラーEIJI』に登場するのは、いわゆるチーム、チーマーとでもいうべき少年たちで、それは、近代日本人の心性に基づくヤンキーや暴走族とは性格をやや異にするものであり、つまりは不良文化のポストモダンでもあった、と冗談半分でいうこともできるわけだが、本気半分でいえば、もちろんそのことは、同時期オタク文化をベースとしたサブ・カルチャーに起こりつつあったことと、並行的な問題に他ならない。そういえば『サイコメトラーEIJI』のテレビ・ドラマ版(97年)の演出を手がけたのは堤幸彦であったが、ちょうど彼の手法がそうであるように、話の筋というかテーマというか、または主人公の成長と言い換えられる項目よりも、ギミックそれ自体の機能を優先させるかたちで、『サイコメトラーEIJI』(や藤沢とおるの『GTO』)というマンガは成り立っていた。この『シバトラ』も同様で、たとえば竹虎の、未だ詳細の説明されていない能力やモチベーション、小次郎に仮託されたストリート性、それから少年犯罪におけるセンセーショナルな温度が、作中人物の内面を掘り下げたり、この時代に対する批評になっているわけではない。では、どういうことか。要するに、だ。適度に洗練されたスペクタクルが、どれだけ有効であるのかに頼む、そういう表現なのである(ちなみに藤沢とおるの現在の作品『仮面ティーチャー』にも同義のことがいえる)。


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(07年)
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