ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年06月06日
 ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種

 世界と運命と物語を弄ぶ狐面の男、彼との対決に臨んだ戯言使いである「ぼく」たちを阻むようにして現れた小さな影、それは橙なる種と呼ばれる人類の最終存在であった。放心する「ぼく」の目の前で、誰も救われない最悪の宴がはじまった。いやいや、とりあえずサブ・タイトルはダウトだろう。おそらく読み手の多くが、クライマックスとして捉えていただろう瞬間は、そっけなく訪れ、あっけなく終わる。上巻のラストでギリギリにまで高められた緊張が、ページをめくるごとに引き下げられていく感じだ。裏表紙に登場の予告された人物が介入してくるまで、ストーリーはわりと冗長に進む。これまでに姿を見せていなかった登場人物が次々と舞台に昇る、または何人かの登場人物が次々と舞台から降りるが、劇的な場面はすくなく、あくまでも下巻で果たされる決着に奉仕するため、細部が動いているような印象を受けた。

 さて。西尾維新の小説を読むとき、いつも考えさせられるのは、もしも唯一無二のものがあるとしたら、それはいったいどのようにして代替不可能として判定されるのか、ということだ。ミステリとして捉えた場合、入れ替えによるトリックが多く使われるのも、同様の理由に根差していると思われる。自由意思というものが実際に存在するのかどうかはわからないけれども、ここでは、因果律に抗うためなのか、それとも結局は決定論に呑み込まれるためなのか、誰かに強要されない自覚的な裏切りが実行されてゆく。そうした行為が、模倣ではない、オリジナルと認識される。結果、敵が味方になり、味方が敵になり、そして敵は敵のままなのであった。

 もしも唯一無二のものがあるとしたら、それはいったいどのようにして代替不可能として判定されるのか。そのような青臭い議論をフォローすることのできる公理をひとつ用意するのであれば、それは「きみとぼく」という絶対的な相対関係となるのだろう。君の代わりに君はなく、僕の代わりに僕はいない。けれども、しかし。僕が変わることがあったとして、それでも僕は、君にとって唯一無二であり続けるのだろうか。あるいは逆に、君が変わることがあったとしたならば。かくしてストーリーは、「きみとぼく」を指し示す記号であり、すべてのはじまりでもあったサブ・タイトル「青色サヴァンと戯言使い」を冠したすべてのおわり、下巻へと続いてゆくのである。

 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』についての文章→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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