ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年05月08日
 『文學界』6月号掲載。ここ最近の傾向なのか、二十代三十代の若い男性作家が積極的に無職の人間を扱うのに対して、同じ世代の女性作家は会社等に勤めている人間を用いることが多いような、そういう気がする。もちろん、それというのは作者らの実体験が反映された結果であるのかもしれないし、そうしたことの背景には、今日における男性と女性の生活環境の差異があるのだろうけれども、後者の場合はとくに、そこにあるストレスを描写することで、何かしらかのリアリティをからめとっている、との印象をつよく受けるわけだが、津村記久子の『冷たい十字路』もまた、そのようなフラストレイトする女性についての小説である、といえなくもない。学生同士による自転車衝突事故周辺の事情を、作中の視点が、複数回チェンジしながら語られる作品であるため、けして働いている女性ばかりが登場するのではないのだけれど、いや、たしかに世代や年齢は違えども、彼女たちはみな、どこか、なにか、に対して苛立ち、精神を疲弊している。いま「どこか、なにか」といったが、それはわりとはっきり作品のなかに示されており、また根源をほぼ合致させるもので、簡単にまとめるのであれば、公(おおやけ)の場における他者との不可避な接触、に端を発している。しかしどうして誰しもが、そこでストレスにかかずらわなければならないのか。たとえば、自転車衝突事故の直截の被害者ではないが、会社へ向かう途中、その場面に遭遇した、作中人物のひとりであるイマザトが、〈哀れなのは事故った連中よりも汚れたスカートで仕事に行かなければならない自分だと思いこもうとする〉のは、〈この界隈で擦れ違うどの人もが、その目的地を問わずそう思い込んでいるのと同じように。彼らがお互いについて知っていることは唯一、わたしはあんたより重要な目的地を持っている、ということだけだ。もちろんそれはまったく一方的な思い込みであるのだけども、朝方に擦れ違う人たちはなぜかそういう確信を抱いているように見える〉のだから、せめて自分は遅刻するわけにいかないからで、要するに、立場や状況こそ異なっていたとしても、各人がこの世界を眺める、あくまでもその見え方の同一性が、べつの誰かを、歩み寄れない、平行線の位置に押しのけてしまう。そして、それらのことが、ここでは、錯綜した因果の連鎖反応によって、あぶり出されてゆく。正直なところ、結末の箇所に、そこまで言わなくとも、と蛇足めいた点を感じさせもするが、作者の、たしかな眼に支えられた信頼に値する内容だ、と思う。

 『炎上学級会』について→こちら
 『十二月の窓辺』について→こちら
 『花婿のハムラビ法典』について→こちら
 『君は永遠にそいつらより若い』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(07年)
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