ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2004年08月04日
 生田紗代が、綿矢りさや島本理生、金原ひとみといった同世代の女性作家と比べて地味なのは、後発であるというよりはむしろ、その実力に問題があることは、デビュー作『オアシス』もかなり怪しかったが、この『タイムカプセル』ではっきりとした。
 
 ここに書かれていることは、基本的に、自分(他人)の内面に他人(自分)は届かないというもので、そのテーマ自体は、綿矢、島本、金原と共通するものである。ただ、それだけのことをいうのに、なぜこれだけの登場人物が必要なのかが判然としない。おそらく物語を進行させるためだけに、彼や彼女らは、小説中に召還されているのだろう。言い換えれば、ここでのコミュニケーションは、ただ字数を埋める作業にしか他ならないということだ。あるいは、さいしょは必要性を持って現われたのだけれど、途中で要らなくなった。しかし、もったいないので削れなかったという、技術的な不足によるものかもしれない。

 いちばん理解に苦しむのが、韓国人のハン先生の存在である。どう読んでも、この人がどのように物語に貢献しているのか、あるいは、この人がなぜ韓国人でなければならなかったのかが、僕にはまったくわからなかった。

 もしかしたら生田が大学で韓国語の講義を受けているからという理由で登場しただけなんじゃないかな、これ(じっさいに受講してるかどうかはしらない)。
 そう思えるのは、WEEZERや『トーマの心臓』、『猟奇的な彼女』、ファイナルファンタジーといった固有名が、あちこちに登場するのだが、それらが特に物語のなかで必然性を持っていない、つまり、書き手にとっては重要な情報なのかもしれないが、読み手にとっては無意味な情報にしか過ぎない、そういう書き込みが多すぎるからである。

 もちろん固有名の氾濫は、「私」が気にかける異性の名前が最後まで明かされないことと関係しているのだろうけれども、そんなとこまで読みとるには、この小説に対して、かなり親切になってあげなければならず、僕にはちょっとそこまでの感情移入はできない。

 また生田は、食に対する記述が何かしらかの現実感(リアリティ)を生み出すと考えているようで、料理やお菓子の描写が頻出するのだが、しかし、それらはとても稚拙で、もしかしたらこの人は料理とかしたことがないのかもしれないな、と思わせるぐらいの効果しか上げていないのだった。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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