ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年05月04日
 『早稲田文学0』掲載。川上未映子の『わたくし率 イン 歯ー、または世界』は、詩のサイドから小説のサイドへとジャンプした、その、言葉の連なりの宙空に浮かぶ姿が、とてもかっこうよい作品で、今日におそらく、こういうふうに書きたいと思っている人間はすくなくないのに、誰もこういうふうには書けない、それをまさにこういうふうにちゃんと書けている、そしてそのことが、すごく、新鮮に、響く。カッティング・エッジというのではなくて、ワンセンテンスはスムースに流れるのだけれども、当たりぎわに芯の部分はけっこう太く感じられ、たとえば町田康や中原昌也あたりが持っているニュアンスに近しい、繊細な図々しさが、そのうち透けて見えてくる。話の筋というものはあることにはあるのだが、それを抜き出してみたところで仕方がないと思いつつ、ひとまず、歯科助手の仕事に就いた歯の丈夫な〈わたし〉には、青木という恋人がいて、そうして未来の自分の子供にあて日記を書き出すことから、ひょっとすると彼女は妊娠しているのではないか、と、こちらに予感させたりもするのだけれど、作中の空間は、微妙によれており、物語はやがて、すこし崩れたほうに着地する。とはいえ、展開そのものは単純である。しかし、饒舌な語り口のうちに、それ以上のことや、またはそれ以外のことが、多分に含まれていて、そこからやってくる印象は単調ではない。〈ねえ、おまえの主語はなんですか? お母さんの主語は、こうして手紙を書いているたった今は、お母さん、でいられるのです。お母さん。お母さん。とても素敵。このたった今ならお母さんはお母さん以外ではないのだもの〉と、そのような個所から演繹するのであれば、たぶん題のなかにある不思議な感触の言葉「歯ー」とは、「Her」のことでもあり、その「Her」が何を指しているのかといえば、彼女の(現実には存在しない)子供にとってのお母さんである、つまり〈わたし〉のことだ、とも考えられる。いや、そう考えていくとき、結局のところ、何も所有せず、何にも固定されていない〈わたし〉という主語自体の、寂しげな姿が浮かび上がってくるようだった。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(07年)
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