ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年06月02日
 音楽雑誌が「ヘヴィになったヘヴィになった」って吹聴するので、ほほう、どれどれ、と期待値を上げてしまったのがいけなかった。もともとがデフトーンズのコピー・バンドだったという前身を考えれば、むしろ、これはバック・トゥ・ルーツ的な発展なのではないかな。ことによると、ポップ・パンク系の腕利きであるマーク・トロンビーノをプロデューサーに迎えたデビュー作にあった爽快感みたいなもののほうが、イレギュラーだったのかもしれない。ここに展開されているメタリックかつヘヴィなグルーヴを基調にしたサウンドは、もしもこれがデビュー作であったならば、グラスジョーのフォロワーとして受け止められてしまっただろう類のものだ。で、問題は、それが良いか悪いかの判断になるわけだ。が、さて、カオティックになったといえば聞こえはよいのだけれども、この1年ぐらいで、カオティック系ハードコアとエモ(エモコア)の境界線ってずいぶんと曖昧に、大きく重なり合うところが出てきている。たとえばケイン・ホッダーは、そこいらへんを非常に意識して、雑食性を剥き出しにしている感じがするし、そういった部分を完全に無視して、シンガロングな大衆を相手にしているのが、ユーズドとかストーリー・オブ・ジ・イヤーなんかになるわけだ。そのように考えると、フィンチの立ち位置というは、やや微妙である。というか、どういうヴィジョンを抱えているのかが、ちょっと不鮮明のような感じがする。突き抜けるにしてはややウェルメイドな作りであるし、ドタバタとしたアンサンブルはラジオ・フレンドリーじゃないような。こういう言い方で伝わるかどうかわからないが、たくさんの引き出しを次々に開ける、で、それを開けっ放しにしないでちゃんと閉めている、つまり扱える情報量の限度を見極めている、そういう所作が無意識のうちに行われている風に感じられるのだ。そこを個性や実力や可能性として捉えるか、それとも中途半端と捉えるかどうかってのが、問題になる。それとヴォーカルの表現力が、たとえばグラスジョーやサーズデイなんかに比べると、若く力任せなところがありすぎ、暗く沈み込む場面での吸引力が、すこし弱い。いやいや、悪い作品ではないよ、悪くなんかない、ぜんぜんオーケー。ただ振れ幅のコントロールの見え透いてしまう点が、その分聴き易くもあるのだけれども、しかし僕にはもったいなく思えるのだった。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽。
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