ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年05月03日
 月の光 (4巻)

 まあ、この尻すぼみ感にしたって、結局は狩撫麻礼(marginal)だしね、だとか言ったら、ハードコアなファンからは、めちゃんこクレームをつけられそうだけれども、大風呂敷を広げるだけ広げておいて、それを畳まず、最小の共同体たる家族の姿にメインのテーマを落とし込むというのは、ここ最近(おそらくは90年代以降)の狩撫麻礼が良く使うパターンのひとつでは、ある。では、なぜそれを繰り返してしまうのか、たんに手癖というのだけではなくて、ある程度意識されたうえであることが、この『Astral Project 月の光』(竹谷州史)の最終4巻には、かなり直截的に示されている。つまり、この国においては〈1990年代後半に“ある種類の人間”の数が米国を追い抜いてしまった〉ためである。この“ある種類の人間”とは何かといえば、作中で、オタク指向の人間として現れている、要するに、不特定多数が共有しうるイデオロギー(大きな物語とかに言い換えてもよろしいよ)を前提としない人びとのことであろう。〈精神構造の中核を《天皇制》にゆだねてきたこの国の長い歴史があるのだ / 1945年の終戦と同時にポッカリと“空白”になってしまったその中核を……何が埋めたと思う?(略)プロレスだ / テレビジョンを利用した本来は対社会主義の占領政策だったのだが上手くゆきすぎた / プロレスと芸能とヤクザ……がこの国の《共同体》の御神体となったのだ / 時代が移り……同じ理論で“マンガ”“アニメーション”“ゲーム”“インターネット”……が精神の空白部分を占めれば…………それこそがジャパニーズ・クール!!〉という台詞は、やや説明的にすぎる(こういう部分がマンガの内容を、すこし、詰まらなくしている)と言いたいが、しかし、一個のまとめならばわかりやすくはあるよね。たとえばプロレスや芸能が、何かしらかのイデオロギーを背景に持ったサブ・カルチャーだといえるとき、今日、あるプロレスラーや芸能人が政治団体あるいは宗教団体と結びついていたりするだけで、非難を浴びせられる場面がすくなくないのは、そもそも、そういった政治性や宗教性の持つイデオロギーの支配が、とくにインターネット上などでは、失効しているからだと考えられる。換言すれば、イデオロギー自体の存在をサブ・カルチャーが必要としなくなった結果である(と、このへんは近年の大塚英志あたりがする話とだぶるわけだ)。それでもイデオロギーを伝播する手段としてサブ・カルチャーが効果的であったのと〈同じ理論で“マンガ”“アニメーション”“ゲーム”“インターネット”〉などのイデオロギー抜きのサブ・カルチャー〈が精神の空白部分を占め〉ることの行く末が、ここでは案じられており、それに抗うべく、いわゆる対幻想とは異なったかたちで、家族に模した共同体の再構成が支持されているように見える。そしてそのことはまた、狩撫にしたら、それこそ90年代の『天使派リョウ』(中村真理子)や『タコポン』(いましろたかし)といった作品から、地続きで存在するテーマに他ならない。

 1巻・2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(07年)
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