ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年04月29日
 預言者ピッピ 1 (1)

 出た。ついに単行本化された。それがとてもうれしいし、こうしてまとめて読むと、あらためてその内容に、うならされる。いやあ、考えさせられる。地下沢中也『預言者ピッピ』の第1巻である。おそらく一話目が『COMIC CUE』誌上に、読み切りだと思われるかたちで発表されたとき、大勢の読み手が、ひとりのギャグ・マンガ家の、暗い資質が、たんにシリアスに現れた程度の作品だと考えていたはずで、この時代には、そう珍しくないことだ。が、しかし、そうではなかった。その後に、続きとなるシリーズが同誌に掲載され続けることで、はたして作者の構想がどのぐらい先にまで及んでいるのかは不明だが、すくなくともこちらの与り知らぬレベルで、ある種の思考実験とさえいってしまっても差し支えがないであろう、壮大なスケールの物語の編まれようとしていることが、じょじょに明かされていった。

 ピッピと呼ばれる人(子供)型のロボット、それは、すべての事象をデータとして計算し、自然災害などをあらかじめ予知することで、被害を最小限に抑えるという、高度な科学術が達成した人類の叡智であり、そのことによって、人びとは、より安心に、そして平和に暮らせる、はずだった。しかし、瀬川という科学者の一人息子で、ピッピの親友でもあったタミオの死が――いわば不幸をなくすための装置の、その眼前で、たったひとつの例外的な存在の喪失されたという事実が、ピッピのなかに新しいインプットをもたらす。それは、つまりピッピのなかで〈ボクには願うなんてことはできないんだよ / 人間はありもしないことを心に描いたりできるらしいけど / ボクにはそんなことできないんだ / ボクはロボットだから〉とされていたことが、〈ぼくは確率の計算しかできないロボットだ / 願うということがぼくにはわからない / でも もしも願うだけで / この世のすべて災いが なくなるのなら / ぼくは きっと そうする / もしも それで願いがかなうなら〉と書き換えられた瞬間であった。感情の芽生えというなら、そうかもしれないけれども、じつはこのときを境に、人類は、カタストロフへと向かい、その歩を進めはじめていた。

 以上が、おおまかな事の起こりだといえる。かくして、生きとし生けるものにとって、未曾有の危機が訪れることになるのだが、それは当人たちの知らぬ間に、あくまでもスタティックに進行する。ここが、この物語のこの巻における、最大級のサスペンスであろう。破滅は、破滅として気づかれず、それを預言するピッピの言葉は、むしろ破滅を回避するためのものとして、歓迎される。どれだけの絶望であったとしても、他人事で済ませる段階であれば、気に留める必要なぞ生じえないからである。

 ところで、いったん話は変わり、東浩紀が提唱する言葉に「ゲーム的リアリズム」というのがある。新書『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』のなかで、〈ゲーム的リアリズムは、ポストモダンの拡散した物語消費と、その拡散が生み出した構造のメタ物語性に支えられている〉といわれているものだ(そこではあくまでも小説という形式に対してのものであるが)。ここで、その一側面を、えらく大雑把に取り出してみたいのだが、それというのは要するに、ひとつの作品のなかで、主人公が、いわゆるリセット可能な生を、何度も生き直すことによって、同じ物語のべつの展開が複数回繰り返されるような、そうした手つきが主題を浮上させる作品に対して、感情移入が生じるとき、我々は、他の展開もありえたという物語の総和(メタ物語)を見ているのだ、というふうにいえる。また、その場合、SF的な諸設定は、表現の目的ではなくて、一個の手段として採用されているに過ぎない。

 いや何も東のいう「ゲーム的リアリズム」でもって、この作品を捉まえようというわけではないのだけれども、『預言者ピッピ』には、それと接触またはそれに抵触するところがある。あるいは、大澤真幸がいくつかの文章で述べているような、自分の人生には現在とは異なるべつの展開がある(あった)と想像しうる、今日に一般的な観念を内包している、といったほうが正確かもしれない。たとえば『預言者ピッピ』の作中を生きる人びとにとっても、まさしく、そのような指向性は現実であろう。そして彼らは、ピッピの予知に基づいて、他でもありえた可能性のなかから、最良のものを選択していくのだが、しかしそのことは結果的に、彼らから、他でもありえた可能性を剥奪してゆく。公開自殺の役目を買って出た新聞記者の真田は、その最たる例だといえる。最たる例であるからこそ、人類の運命を象徴する出来事として描かれており、真田が〈俺自身のことを他の誰かに決められてたまるもんか〉と言うさい、これはいっけん主体的な行動に見えながらも、すでに因果のうちに含まれている、とピッピに告げられてしまう。

 はたしてこのとき、つまり目の前に示される可能性が、それ以外の可能性など何ひとつない、といったことの証明でしかないとき、それでも希望を信じることは可能なのか。物語のうねりによって喚起されるのは、おそらく、そのような問いである。

 ※この項、ちょっと(いや、ちょっとじゃねえな)雑で未整理ですが、時間があるときに書き改めるか、2巻以降が出たら、そのときに新しいエントリでまとめ直したい、と思います。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(07年)
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