ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2014年07月22日
 何もないけど空は青い 1 (少年サンデーコミックス)

 西森博之が『今日から俺は!!』あるいは『甘く危険なナンパ刑事』の頃より描き続けているのは、ある種の人間性テストだといえる。そこが日常であるかぎりは気楽であったはずの人物が何かしらかの極限状態に陥ったとき、果たしてその人物はどのような本性と行動を見せるのか。そして、できるだけ理想的な姿=回答を正解に近いものとしてきたのだと思われる。たとえば、それは『今日から俺は!!』でドッキリにはめられた今井の同情を禁じえないのに笑えるリアクションであったり、ピンチに立たされた三橋の普段からは想像されない男気などを例に出してみるとわかりやすい。伊藤の正義感に関しては言わずもがな、であろう。また、それは立場や態度、性別は異なろうと、後の作品にも継承されてきたものであって、事と次第によったら悪役の者が人間性テストにかけられ、底の浅さを露呈した挙げ句、敗北したりもする。春風邪三太との共作である『スピンナウト』は、西森のキャリアにとっては異色のファンタジーだったが、あれも秩序や倫理の違う世界に飛ばされた少年たちの困難をベースにし、人間性テストを描いていたということに変わりはないのである。

 西森が飯沼ゆうきと組み、完全に原作の側に回った『何もないけど空は青い』はどうだろう。やはり、ここで繰り広げられているのも人間性テストに喩えられるような日常との対照にほかならない。いや、それはポストアポカリプス風の舞台装置(サヴァイヴァル)を取ったことで、一層顕著にすらなっている。巨大な隕石とのニアミスが原因で金属が腐敗しはじめ、これを契機に文明が崩壊し出した架空の現代日本という設定は、西森の小説である『満天の星と青い空』の流用だけれど、そこでは生き残るために必死となった人々のタガは外れ、他人を蹴落とすことも厭わぬ(文字通り)弱肉強食の価値観が主流を占めようとしている。食料は略奪によってのみ得られ、暴力が手段として必要とされる。以前の文化圏はまだ残っているが、徐々に失われつつある。野蛮であることを恥じる者は馬鹿を見るしかない。もちろん、主人公の少年的なヒロイズムはそのような状況に対するアンチテーゼにあたる。『何もないけど空は青い』において注意すべきは、環境の変化に適応した人間と適応できなかった人間の優劣を判断するのとは別の水準で物語が構築されている点だと思う。環境の変化に適応するということは生き残るということである。主人公が生き残っている以上、それはつまり彼なりのスタンスで環境の変化と適応しているのに等しい。少なくとも、この1巻の段階では、彼と周囲の人間との関わり(彼が周囲に及ぼしていく影響)を基礎にして物語は作られている。

 主人公だけではなく、あまたの人間が人間性テストにかけられる。それが『何もないけど空は青い』の概要である。このとき、主人公である河守仁吉がフォローし、仁吉をフォローする二人のヒロイン、同級生の七ノ宮華羅と母親とはぐれてしまった玲奈という幼い少女の存在は何を示しているのか。図式的に解釈するのであれば、華羅は仁吉が必要としているという意味での「他者」=鏡であり、玲奈は仁吉を必要としているという意味での「他者」=鏡であろう。それらの鏡を通して仁吉はこの人間性テストにおける「自分」の姿を確認していくこととなるのだ。清水洋三にも似たスタイリッシュさのある飯沼の絵柄は確かに『週刊少年サンデー』っぽい。一方、どういった形で原作が提供されているのかは知らないが、随所に西森のテイストを帯びたカットが入ってきている。

・その他西森博之の小説に関する文章
 『俺の心臓は彼女にしか撃ち抜けない』について→こちら
 『満天の星と青い空』について→こちら


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