ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2014年06月29日
 はずんで! パパモッコ3 はずんで! パパモッコ4 (はずんで!パパモッコ)

 メルヘンだなあ。メルヘンである。現代における良質なメルヘンが山本ルンルンにはあると思う。少なくとも、この『はずんで!パパモッコ』に関してはそうだ。1、2巻に引き続き、3、4巻が同時に出た。相も変わらず、ゆったりと接せられるような人間観や光景を描いているのだったが、前巻までに確立された登場人物の「キャラクター」は、親しみを増し、作品の世界そのものをより生き生きとさせている。一話完結型のスタイルは、エピソードごとに両手ですくえる水たまりほどの感動を残していく。他方、設定とストーリーの連続性は、登場人物たちにコマで示されている以上の深さや厚み(内面やエモーション)を与える。リアリズムではなく、デフォルメを強調した可愛い絵柄でありながら、体温のよく通ったドラマを得られるのは、おそらく、このためだろう。

 タイトルにある「パパモッコ」とは、作品の所謂マスコットであって、主人公である双子の父親が(発明家である彼が発明品のトラブルによって)モッコちゃんというぬいぐるみに姿を変えられてしまったものだ。喩えるなら「ドラえもん」に近い。保護者としての「キャラクター」である。単に、心はおっさん、体はぬいぐるみ、であるはずなのだが、絵柄の異化もあってか、発明家であることの利便性と保護者であることの信頼性を印象的にしている。その父親が作った発明品の数々が、物語を転がすための装置だとしたら、双子の少女に溢れている好奇心は、それを働かせるためのキーであろう。また、装置を働かせる上で必要な動力をもたらしているのは、彼女たちを取り巻く人々や生活の存在にほかならない。こうした構図は、作品自体の奥行きでもある。

 科学が機能し、父親の突飛な発明品が受け入れられている世界ではあるものの、SF的であるというより、砕けたファンタジーのテイストに全編が覆われている。そこにメルヘンを思わせるものがある。ぬいぐるみが喋ったり、ロボットが悩んだりするのは、科学の成果としてではない。あくまでもファンタジーの柔らかさからやってきているのである。

 優れたメルヘンは、時々、幸せとは何か、を問いかける。答えを暗示のなかに持ち合わせることがある。主人公の双子、イチコとニコの家族に母親が欠けているのは、ある場合には、幸せとは何か、の答えに家族がなりえるからだろう。無論、『はずんで!パパモッコ』において注意されたいのは、母親がいないことの不幸せではない。それでも、双子と父親の家族の肖像が幸せを含んだものに見えてくる点であろう。悲しみや寂しさが描かれていないというのではない。悲しみや寂しさはある。確かにある。だが、それに囚われることを不幸せだとしたとき、それはいかにして上書きされるのか。まさしく、幸せとは何か、の答え合わせであるような人間観と光景とが、オール・カラーの明るいページに浮かび上がらされているのだ。

 ともすれば、寂しさが『はずんで!パパモッコ』の基調でもある。イチコとニコにかぎらず、あるいはヒトであるような存在にかかわらず、登場人物たちの寂しさを通じて、ほとんどのエピソードが作られている。誰かがいなくなってしまうという悲しみ。他の誰かにいて欲しいという寂しさが、学園や往来の賑やかさと並列されているのである。寂しさが嫉妬やワガママに変形していることもある。軽はずみな嫉妬やワガママが喜劇に繋がっていく場面も少なくはない。本質的にはハッピーなマンガである。ニコニコしちゃう。しかし、その幸せの重量は、寂しさをよく知った者の眼差しによって計られ、運び込まれてきている。がゆえに、無根拠な優しさよりもずっと優しい。

 個人的には、リッパーのエピソードと(マカセテくん改め)マカセテちゃんのエピソードが好きである。ストーリーの連続性が顕著なのも、実はそれらのエピソードだと思う。

 『ないしょの話〜山本ルンルン作品集〜』について→こちら
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