ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年04月23日
 ジナス-ZENITH 2 (2)

 我々はそろそろ、『バードマン★ラリー鳥人伝説 吉田聡傑作短編集』(90年)の解説が宮崎駿であったことを思い返す時期に差し掛かっているのではないか(大げさかな)。『湘南爆走族』を傑作だといい、『スローニン』を好きだといい、『ダックテール』をとても好きだという、宮崎がそれらの作品に見ていたのは、つまり、〈かこわれた学園生活の大騒ぎ〉から〈かこわれた学園という舞台を、世間としての学園に捉えなおすこと〉であった。要するに、一個として数えられるべき人間がこの社会でどう生きるか、ということであろう。こうした文脈を把握していないと、のちの黒田硫黄の作品に対して宮崎があてた評を、作画にのみ関してのものだという勘違いを引き起こしてしまう。といったところで、話は変わるのだけど、さて、皆様方が大好きな浦沢直樹『PLUTO』の4巻、最後のページ(奥付のさらに後ろね)を開かれたい。そこには次のようなコピーがある。〈人間とロボット…その深き闇を覗く者は――〉。作中でじっさいに使われている文句ではないとしても、作品を象徴する文句としてはすくなからず機能している、として、おそらくは長崎尚志(ビッグ・オー)のアイディアであるか、もしそうでなければ、べつの人間が意識的にか無意識にかチョイスしたことになるわけだけれども、そう、これは、どうしようもなく、あの、吉田の『ジナス―ZENITH―』で作中に響き渡る〈ジナスを見た者はジナスに覗き返される〉というフレーズを想起させるし、そもそもそのフレーズ自体が『荒くれKNIGHT』のなかですでに〈覚えときな……深い闇の淵を覗こうとする者は その時深い闇からも覗き返されているのだという事をな……!〉と発されていたもののヴァリエーションであり、『PLUTO』4巻末のコピーは、むしろ、そちらに近しい。

 と、(やや牽強付会にすぎるが)ここでいいたいのは、コメディを軽んじない作風からか、他のシリアスな作家に比べ、どうも浅く見られているような印象があるけれども、しかし吉田聡というマンガ家の問題意識は、つねに今日的な現実のほうを向き、密着していていたのであり、そしてそれは、この時代において、もっとずっと考えられてしかるべきものだ、ということである。

 あるいは、現実というものはすべて、人の心によって成り立っている、という提言なのかもしれない。『ジナス』の2巻、自分を覚えてくれている人間の記憶を頼りに、時と場所を越え、七日間だけ蘇ることのできた死者は、それぞれの思惑を胸に、この世をもう一度眺め、生きていたころの続きを、銀髪の殺し屋がやってくるそのときまで、しばし続ける。それにしても、いったい何のために、か。ジナスと呼ばれるものだけが、その鍵を握るのであったが、しかしジナスが意味するものを、未だ誰も知らない。こうしてつくられた物語のなかで、繰り返し問われているのは、感情の価値、に他ならない。この巻で印象的なのは、ジナスの謎を追っていた新聞記者を襲う連続殺人鬼(死者)が、自分が罪を犯したことではなくて、死ぬ直前に罪を悔いたことを心の病だと言い、正しさは、感情をともなわない境地にあることを主張する箇所である。〈後悔や不安……感情があるから人間なの? じゃあその感情は役に立つの? あんたが死んで誰かが泣いても その涙で世の中は変わるの? あんたが死ねば あんたと一緒に消えてなくなる感情なんて――見えないくせに苦しみを作るだけのばい菌と同じさ“ジナスが来る”“完全な物が来る!”“完全な物”は感情なんて理解しない!〉。この、感情は役に立つのか、という問いは、幼稚なレベルであれば、さまざまな場所で見かけうるもので、本来ならばハイクラスな問題として慎重に取りざたされなければならないところを、正直、自身が役に立たない人間ほどこういうことを言いたがるから、また厄介になってしまうのだが、突き詰めていくと、感情のない「物」を人間とは呼ばないよ、といった点に帰結するように思われる。作中で、銀髪が、連続殺人鬼(死者)に向けて、〈おまえを殺すことに後悔はない〉と告げるのは、ひとつには、このためであろう。

 さて。生死を直截的に扱う『ジナス』の内容は、同作者の『てんねん』の延長線上にあると考えられる一方で、原形を『バードマン★ラリー』に収められている『天翔ける鈴』という作品に見ることもできる。痛みを意識的に断絶するぐらいにまで進化した結果、最終戦争が起こっても他人事だとしか思えず、自分たちの星を失った宇宙人が、地球の様子を見て、知り合いになった不良少年のシブカワに、こう述べる。〈シブカワ、この星もよく似ているぞ! 死体の写真を子供が見て笑ってる! ウラミもない者同士が無意味に傷つけ合っている!!〉。やがてシブカワの人間らしい行動が、その宇宙人に〈おまえのようなヤツがたくさんいたら……オレの星は滅びなかったかもしれないな…………〉と思わせるくだりに、『天翔ける鈴』というマンガの主題があるわけだが、しかし、痛みや苦しみがあるせいで、争いが起こることもあり、感情のあるがゆえに、他人に対して痛みや苦しみを与えてしまうことさえある。だが、そうした世界を諦めず、逃げないことを指してこそ、現実を生きる、というのではなかったか。『ジナス』 において、ジナスを創ったと嘯く謎の男、高天明は、人間が“恐怖”や“愛”にとらわれることを、“恐怖”と“愛”の両面がけして矛盾しないことを、理解しえない。また、銀髪は、人の感情を、あくまでも情報として知る、だけである。とはいえ、それはほんとうに知ったことを意味せず、そのことは同時に、彼らには伝えるべきものが、何ひとつ、備わっていないことを示している。

 1巻について→こちら

・その他吉田聡に関する文章
 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』
  11巻について→こちら
  最終回について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら

 『湘南グラフィティ』について→こちら
posted by もりた | Comment(3) | TrackBack(0) | マンガ(07年)
この記事へのコメント
はじめまして、健太といいます。
吉田聡ファンです。
いきなりで失礼かもしれませんが、
関東ドドンパ男についてどう思われますか?
自分の中ではかなりいい漫画の1つなんですが、
吉田聡ファンにしか受け入れられないというイメージを持っていました。
ただ吉田聡ファンでも評価が低いように感じています。
Posted by 健太 at 2007年07月23日 19:51
健太さん、コメントありがとうございます。
当該作については、だいぶ前に読んだきりなので、近いうちに読み返したい、と思います。で、それを前提にしての話になるのですが、「関東ドドンパ男」がどうというよりも、あんがい90年代前半における吉田聡に対する一般的な評価が、80年代の作品「湘南爆走族」や「ちょっとヨロシク!」、「スローニン」あたりの影に隠れて、微妙なものになってしまっているんじゃないかな、と思います。たとえば「DADA!」あたりも、連載当時はけっこう読まれていたはずなのに、現在はそれほど顧みられることがない気がするわけで(個人的にも)。あと、作者のなかでイメージする硬派が描きづらく、シリアスとギャグのバランスがとりにくい時代だったのかもしれません。
Posted by もりた at 2007年07月24日 16:41
早速のご返答ありがとうございます。
言われて見ればそうですね。
誰かとあの漫画面白かったなーみたいな話をするならスローニンですねー。
同じように天翔ける鈴やGood−ばい!あたりも陰に隠れすぎている気がします。
時代というのは漫画を読み始めた時期の関係で実感としては分からないですが、当時の人気の漫画や去年のこのマンガがすごい!でF.C.ジンガが順位にかすりもしてなかったことなどから考えるとなるほどと納得できました。
ありがとうございました。
Posted by 健太 at 2007年07月24日 23:04
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