ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2014年05月20日
 BORDER (2) (カドカワコミックス・エース)

 原案は金城一紀である。金城とは別の作家によるノベライズは未読だが、テレビ・ドラマ版は(今のところ)二話目がおもしろかったかな、と思う。連続殺人が起こる。サイコパスがいて、事件にタイム・リミットがあり、主人公の特殊能力とチームワークとが犯人を追い詰めていく。奇をてらっているようでありながら、サイコ・サスペンスならではのスリルをきちっと収めたエピソードになっていた。さて、このコミカライズに関しては、テレビ・ドラマ版と設定を同じくしている以上に、小手川ゆあの特徴がよく出ている内容でもある。加害者の側に立ってしまったなら、誰も被害者にはなれない(しかし、被害者であるかぎりは誰もが加害者にはなれる)そのことを逆説上の不運として描いた『君のナイフ』のあと、「罪」と「罰」の相関であるよりは「善」と「悪」の対照に焦点を絞り、物語を作ろうとするのであれば、なるほど、こうなる、という印象だ。小手川のキャリアを考えたとき、正直な話、前巻(1巻)にははっとさせられる点は少なかった。だが、2巻に入って、とりわけ後半のエピソードである「懊悩」に引きつけられるものが多い。

 たとえば「懊悩」において興味深いのは、死者と話せるという主人公、石川安吾のアドヴァンテージが通用しない状況が現れ、さらに彼は事件の核心へ迫ったにもかかわらず、ほとんど傍観者のように、その結末を見届けなければならなくなっている。ここで注意されたいのは、おそらくサイコパスと見なせるであろう人間が、なぜ「法」を逸脱した凶行に向かったのかではなく、同じく「法」を逸脱した別の人間によって、容赦なく裁かれてしまうことである。換言するなら、因果関係のレイヤーを形而上のレベルに求めるのではなくて、すべての成り行きが形而下で起こったものとして描かれているのだ。筋書きのみを取り出すならば、変態野郎に娘を殺された父親が変態野郎と仲間たちをぶっ殺して警察に捕まりました、と。これを越えるものではないだろう。しかしながら、それだけの筋書きであるはずなのに、どうしてか心境を複雑にさせられる。

 石川の〈白か 黒か 決めるのは脳〉〈それが死者だとしても〉〈脳に銃弾を受けてオレの世界が変わった〉〈世界は 黒か… 白か… あるいは…〉というモノローグは、「懊悩」を見る上で非常に示唆的であろう。小手川のファンは、そこに『おっとり捜査』の終盤(9巻)で、とある人物が主人公の秋葉に向かい(あるいは読み手に向けて)殺人鬼の腕を移植された人間の苦悩を描いたとされる映画の引用だと言い、次のように発する問いの残響を聞き取るかもしれない。「邪悪はどこに潜むのか」「脳か あるいは心臓か」「それとも… この右腕に?」こうした問いはもちろん、高橋ツトムの『地雷震』のクライマックスに通じるものであり、臓器移植法が施行された当時(90年代の終わりから2000年代のはじまりにかけ)盛んであった「命」は「脳」に宿るのか「心臓」に宿るのか式の議論を汲んでいるに違いない。石川の問いと『おっとり捜査』に見られた問いは一部でリンクしている。他方、決定的に異なっているのは「意識」や「思念」は必ずや「脳」に由来していると物語のレベルで『BORDER』が設定していることだ。

 実存の世界で「脳」の失われた死者が石川の前に出てくることはない。石川はそれを荼毘にふすと呼ぶ。このような設定を原案の金城が用意したのかどうかは知らない。が、先に挙げた『おっとり捜査』の問いと比較してみることで、明らかに浮かび上がってくるものがあるし、そしてそのことが、すべての成り行きは形而下の課題であるというリミッターを「懊悩」のエピソードにかけるものとなっている。少なくとも現時点において(と留保しておくけれど)『BORDER』とは「邪悪はどこに潜むのか」を問うマンガではない。〈白か 黒か 決めるのは脳〉であるとすれば、「悪」もやはり「脳」に宿り、そこに潜むしかないのだ。1巻にまで遡るなら、事件の容疑者たちは皆、心理学の解釈めいたエクスキューズ(トラウマへの責任転嫁)さえ与えられず、即物的に処断されてきた。要するに、彼らの内面がいかなる闇を背負っていようが、どう病んでいようが、その「罪」を軽減するための理由とはなっていないのである。犯罪者の動機は深く掘り下げられない。彼らはただ、自らがしでかしたことの結果を通じ、人格を判断される。それはしかし、石川についても同様だといえる。

 繰り返しになるけれど、石川は〈白か 黒か 決めるのは脳〉だと述べる。〈それまでのオレの世界には黒か白かしか無かった〉〈だが自分次第で世界は色を変える〉のだと。これは単に主観の在り方が変化する可能性のみを指しているのではないと思う。いや、主観の変化は当然含まれるとしても、個々のエピソードや2巻までの物語がどのように成り立っているのかにそって考えるのであれば、登場人物たちが「なぜ」そうしたのかであるよりは、一体「何を」したのかの部分に作品の軸足が置かれているとわかる。次のようにもいえるだろう。つまり『BORDER』は、その内面にフォーカスを絞ることで登場人物の資質を浮き彫りにするのではなく、行動と選択とを具体的に描くことで登場人物の資質を浮き彫りにしているのである。

 以上のことを踏まえるとき、「懊悩」というエピソードが心境を複雑にさせるのはどうしてなのか、少しばかり近づけるような気がしてくる。「懊悩」は、サイコパスに娘を殺された父親の復讐を描く。しかし、サイコパスのルーツが徹底解剖されもしなければ、目的を遂行するために手段を選ばない父親の悲哀を前に出しているわけでもない。また、主人公である石川は最終的に事件を解決しなければならない立場を手放しており、必ずしも勧善懲悪のロジックを優先すべく、両者の内面が切り捨てられているのではないことは明白だ。ドラマとしての厚みははっきりとある。迷いや苦悩を掘り下げるかわり、彼らの行動と選択に確固たる輪郭を与えている。これによって、不幸をエクスキューズにしてしまうタイプの安っぽい結末への着地を未然に防いでいるのだった。

 なかでも注意されたいのは、やはり主人公である石川の行動と選択にほかならない。先ほど、石川は事件を解決しなければならない立場を手放してしまうといった。だが、物語において単に刑事の職務を投げ出したとは判断されないだろう。なにゆえ石川がそのような選択をしたのか。そのような行動をとったのか。それはむしろ、読み手の側に引き渡しされた謎であり、テーマであるに違いない。クライマックス、石川の視線の動きはあまりにも多くの情報を含んでいる。正しく眼で語っているのである。と同時に、台詞で説明されないために生じうる曖昧さは、彼の行動と選択を通して、決して実体のないものではなくなる。容易くは看過できない膨らみの問いを読み手に寄越すこととなる。それはもしかしたら「善」と「悪」の対照をめぐる問いであって、石川の〈世界は 黒か… 白か… あるいは…〉という〈あるいは…〉のあとに続いていくのだろう問いでもある。もう一つ、娘を殺された父親、鷺沼はたぶん、これ、作中に絶対の証拠はないのだけれど、石川が刑事だと気づいているよね。さもないと、辻褄が合わない(簡単に騙されたなら、鷺沼のプロフィールと凄みが嘘くさくなる)し、翻って鷺沼が石川を同行させた意図にも勘繰りたいものが出てくる。いずれにせよ、石川は鷺沼に復讐の瞬間を見せられ、それをジャッジする役割を突きつけられたと考えるのが妥当であろう。

 それが登場人物であれ、読み手であれ、なんらかの回答を求められるのでもなく、問いを預けられる。小手川ゆあのマンガの特徴である。主人公が問いを抱えたまま死ぬ、という作品ですら、小手川には少なくない。しかし、絶えず問い続けることでしか辿り着けないエモーションがある。思考停止を免れ、新しく提起される問いがある。問いとともに歩みを進めていくかのような登場人物の姿に胸を揺さぶられる。原案は金城一紀だが、このことは『BORDER』にも共通している。

・その他小手川ゆあの作品に関する文章
 『君のナイフ』1、2巻について→こちら
 『ショートソング』(原作・枡野浩一)
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『死刑囚042』第5巻について→こちら
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