ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2014年04月20日
 熱風・虹丸組 1 (ヤングキングコミックス)

 周知のとおり、桑原真也をヤンキー・マンガのシーンに属させたのは、佐木飛朗斗と組んだ『[R-16]』だったわけだが、その続編として先般連載のはじまった『[R-16]R』に桑原は参加していない。いかなる理由があるのかは知れないが、まあ、桑原の場合、佐木のポエジーとは異なった路線を『疾風・虹丸組』によって確立してみせたのだから、そのままの調子で突き進んでいくことの方が、こちら読み手にとっても必然のように思われる。

 さておき、こうして1巻が出てばかりの『熱風・虹丸組』は『疾風・虹丸組』の続編である。続編とはいっても、物語は『疾風・虹丸組』の10巻からシームレスに繋がっているので、タイトル(前置詞?)の微妙なリニューアルと巻数のリセットは、パッケージ上の単なる仕切り直し程度にとらえておけばいい。要するに、架空の街であるナラシナ市を舞台に不良少年たちが、関東最強の証として七代に渡って受け継がれてきた「無限のジャケット」をめぐり、熾烈な抗争劇を繰り広げていく点に大きな違いはないのだ。

 しかしながら『熱風・虹丸組』においては、『疾風・虹丸組』の後半にかけ、とりわけわかりやすく出ていた特徴が、より顕著となっていることは指摘すべきであろう。その特徴こそが、つまりは桑原が確立したといえる路線であって、一対一(タイマン)によるバトルとアクションの様式にほかならない。一対一によるバトルとアクションの様式は、ともすれば、古典的なスタイルへの回帰でしかないのだった。が、そのリアリズムを度外視したパフォーマンスは、近年のヤンキー・マンガに強調されている「不良少年にだって内面があるんだよ」式の悪しきテーマ主義と因果話の退屈さを、明らかに打ち砕いていよう。

 確かに『疾風・虹丸組』の序盤には、主人公である虹川潤と幼馴染みである羽黒翔丸の対照(光と影の緊張状態)をベースにした暗さがあった。「虹丸組」というネーミングが二人の名前に由来していることを踏まえるならば、そこに作品の根幹を見出すことも可能であった。だが、次々と新しいライヴァルが登場し、彼らとの対決を経るごとに、あるいはヒロインである十文字魔子との(もしかしたら80年代的な)ラブコメ・パートや「虹丸組」の面々を巻き込んだギャグ・パートをシリアスなストーリーのあいだに挟んでいくことで、ポジティヴ馬鹿に等しい主人公の明るさが強調され、それが全編を覆う熱気のようになっていったのである。

 チームを越えて結集したナラシナ市の精鋭、虹川潤、羽黒翔丸、狗神塔馬、四騎森槐、卯月倫人の五人と、「無限のジャケット」を狙ってナラシナ市に侵攻してきた関東最大のチーム、ノスフェラトゥの総長、荒吐篤郎をはじめとする五人とが、お互いに雌雄を決すべく、団体戦形式の対人戦争(タイマンウォーズ)を果たしていくというのが、1巻で提示されている『熱風・虹丸組』の概要であって、もちろん、これはヤンキー・マンガに限らず、格闘をモデルにしたフィクションの古典的なスタイルであり、パターンだろう。

 対人戦争の背景では、他のチームの暗躍が描かれていたりもするが、基本としてカタルシスは一対一によるバトルとアクションの様式に起因している。絵のレベルで、これだけのバトルとアクションを示しているマンガは、現在、そうは存在しない。それはたとえば、橋ヒロシの『WORST』や市川マサの『A-BOUT!! 〜朝桐大活躍編〜』がクライマックスでコケてしまったのはなぜか、を考えさせるものだと思う。どうして不良少年は争わずにいられないのか。この回答が拳と拳のダイアローグとしてバトルとアクションのなかにきちんと埋め込まれているのだった。

 登場人物たちの大見得を前にしたら、タイマンなのにウォーズとはいかに、という疑問は小さなことにすぎない。

 『疾風・虹丸組』第1巻について→こちら

・その他桑原真也に関する文章
 『姫剣』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ラセンバナ 螺旋花』(設定協力・半村良『妖星伝』)
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
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