ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年05月27日
  新創刊されたマンガ誌『月刊少年シリウス』7月号スタート、『ダブルダウン勘繰郎』に続く西尾維新発のJDCトリビュート小説である。

 えっと、内容的なことはひとまず措いておいて、フォーマットに関してちょっと。本誌に印刷されているわけではなくて、別冊付録だというのは、ありがたい。とても読みやすい。イラストがジョージ朝倉でなくなってしまったのは、残念な感じだがまあ、よろしい。ただ、あれだ、文量が少なすぎるだろう。これで一ヶ月分かあ。NHKの連続テレビ小説が毎日じゃなく、月一で放映されるようなもんである。だいたい物語がまったくもって動いていないではないか。マンガ原作とかならば、これでオーケーかもしれないけれども、小説として見た場合、やっぱマズいよな、という感じがする。マンガでいえば、単行本派とか連載派みたいな、読み方が分かれることもないだろう。よっぽどのファンでなければ、単行本化されるのを待つのが、吉である。

 さて。内容であるが、先ほどもいったように、物語自体は、まったく動いていない。ほとんどの登場人物が、舞台に登場しないままで、(続く)となっている。なので、西尾維新の小説におけるパターンでいえば、冒頭に置かれるモノローグ(青臭い自問自答)が、短いページの大部分を占めていることになる。そして、そのモノローグだけれども、そこだけを読むと(ほぼ、そこだけしか読めないため)、西尾はすこし自家中毒を起こしはじめているのではないか、という猜疑ばかりが思い浮かんでしまうのだった。たとえば、主体として語りはじめる人物の職業は、作家である。小説と、作文、文章と、物語について、いろいろと思いを巡らす。画家や芸術が引き合いに出される。純文学かエンターテイメントか、ジャンル、金になるかならないかが滔々と問われる。このあたり、ずいぶんと既視感を覚えた。

 ただし、それは裏を返せば、西尾が一貫して描き続けるテーマのようなものを孕んでいる、という風にも思える。もしも唯一無二のものがあるとしたら、それはいったいどのようにして代替不可能として判定されるのか、と、つまり、そういうことなのではないだろうか。そして物語が進んでいけば、〈髑髏畑一葉は小説を書いているのだ〉、(太字部分は、原文では点により強調されている)このようなセンテンスが、ことによると、清涼院流水がいうような大説云々と結びついてゆくのかもしれない。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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