ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2014年03月03日
 どうせ夢オチなんだろ? 1 (オフィスユーコミックス)

 なかはら・ももたと久保ミツロウのあいだに今も交流があるのかどうかは知らないのだけれど、『どうせ夢オチなんだろ?』には久保の『アゲイン!!』にいくらか寄せていった印象がある。そこにいくえみ綾の『トーチソング・エコロジー』が少し入ってきているか。無論、実際のインスピレーションがどこからやってきているのかはわからない。が、要するに(不甲斐ない男性のイメージをベースにしながら)他でありえたかもしれない可能性と他ではありえなかった自分とをめぐる現代的なファンタジーになっているのである。近親相姦をモチーフとしたエロティックなパートがあるにはあるものの、なかはらの過去作でいうなら、『世界はひとつだけの花』とも毛色が違っている。

 37歳、配送業のアルバイトで生活をしのいでいる主人公、都賀大(ツガヒロシ)は、酔っぱらって駅の階段から落ち、死んだ、と思った。だが、それは夢だったのか。目覚めるといつも通り、しがない日々が待っていた。唯一の楽しみはアルコールだけである。それが行きつけの飲み屋で隣になった若い女性に声をかけられ、一晩をともにしようとしたことから、不可思議なねじれに入り込んでしまう。なんと、彼女は都賀の娘だという。確かに都賀には数年前に別れた妻子がいた。しかし、娘のココロはまだ7歳なのだ。目の前の人物とは年齢が合致しない。そんなわけがない。にもかかわらず、いつしかその言い分を信じはじめた都賀は、彼女と一緒の暮らしを望むのだった。そう、この幸福は〈どうせ 夢なんだろ?〉

 今日的な認識において、我々はみな、メタ・レベルの住人である。とするのであれば、本当は誰もメタ・レベルには立てない(立っていない)のではないか。ココロと暮らすようになって以降、都賀は幾度となく自分が駅の階段から落ちて死んだシーンのフラッシュバックを見る羽目になる。かの映画『ジェイコブス・ラダー』の例を出すまでもなく、幻視と現実の境界が曖昧になっているのであって、それは同時に生と死のどちらに自分の主体が置かれているのかも不明瞭になっていることのサインであろう。事実、都賀は自分が死んでしまったがため、娘との奇妙な再会を果たせたのではないかと思う。すべては死の間際にもたらされた夢なのではないか。こうした懐疑が『どうせ夢オチなんだろ?』という題名には内包されているに違いない。そして、それは種々のフィクション等を通じ、様々な位相のリアリティを学んできた我々(今日的な認識)にとっては、ごく自然な解釈の一つでもある。

 作者が本気でSFをやろうとしているか否かはともかく、所謂パラレル・ワールドの発想が『どうせ夢オチなんだろ?』の物語あるいは展開の動力となっているのは明らかだ。都賀は作中の出来事を自分の見ている夢だと思っている。目が覚めたら、きっと自分は死んでいるのだろう。しかし、夢だとするのであれば、本当にこれは都賀によって見られた夢なのか。作中の別の人物が見ている夢のなかに主人公であるはずの都賀が含まれているにすぎないのではないか。あたかも複数のメタ・レベルが入れ子になっているかのような構造(構造というのが大げさであったら、コマ割りと場面転換)が、1巻のクライマックスにサスペンスを作り出していて、ことのほかヒキは強い。

・その他なかはら・ももたに関する文章
 『マンガ家よゐよゐ』について→こちら
 『おかわり のんdeぽ庵』(原作・イタバシマサヒロ)
  5巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『あかねSAL☆』(原作・岡田惠和)
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック